2010/01/24

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2009/07/28

7月26日ニュース

公 告:船橋聖書バプテスト教会宗教法人設立総会を8月9日礼拝後に開催します。議案内容については掲示板を参照下さい。 牧師 三澤隆男
午後集会夏時間:午後集会は9月末まで夏時間、午後2~3時です。

(予定)

★本日は礼拝に引き続き、バプテスマ式を行います。準備の協力と祝福のために参加下さい。
★青年会では昼食を共にし、学びと交わりを予定しております。
★今週の水曜聖研は、ヨブ記20章「二回目のツォファルの主張」の学びです。
★当教会はかねてから宗教法人格取得の作業を続けてきましたが、いよいよ設立総会開催のめどが立ちましたので、公告のように8月9日礼拝後に、宗教法人設立総会を開催し、法人規則の採択と法人役員の選出(4名)を行いますのでご了解ください。詳細は会堂入り口の掲示をご覧下さい。なおやむを得ず欠席される方は欠席届を提出下さい。
★一般キャンプ(日程:8月13~15日、講師:熊谷教会後藤守牧師、会場:軽井沢神学校)は、恵まれた自然の中で、楽しいプログラムを準備中。教会形成に大事な交わりと学びがありますので、ぜひ参加下さい。申込受付はキャンプ運営委員まで。

(報告)

★先週23~25日、日曜学校では一宮において、「主は私の羊飼い」のテーマで詩篇23篇よりダビデの生涯に学びました。生徒と父兄教師計30名程参加、大変恵まれて無事終了、お世話下さった教師たちに感謝。
★去る24日、婦人交わり会、楽しい交わりと賛美で恵まれました。
★8月からの集会奉仕担当表が出来ています。担当の兄姉には責任を持って準備しご奉仕下さい。不都合な場合はそれぞれの責任者まで一報ください。
★日曜朝の成人クラスでは「日本の風習とキリスト者」のテーマで、現在、日本の仏教を学んでおります。興味のある方はぜひ参加を。
★来月の祈りの表、各自の祈りと聖書の学びにご使用ください。

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7月26日メッセージ「洗うべきは私のこころ」

口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。                マタイ15:(1~20)

《手を洗ったか》

当時の宗教家たちは、神の律法を忠実に守ろうとして、律法の周囲に細則の垣根を考案し、それを守ることに汲々としていた。またそれらを遵守している自分たちを誇り、周囲はどうしているかに目を光らせていた。彼らにとって食事は神聖なものであった。外で汚れたものに触れて汚れたかも知れない手を教えに従った方法で洗ってきよめてから食卓についた。当時の著名なラビは、投獄された時、与えられるわずかな水を「たとい渇きのために死すとも手を洗わずに食事をすることは出来ない」と、手を洗うことに使ったと言う。ところが主イエスはそれにこだわらない(ルカ11:38)。イエスを異端者かどうかを判断するためエルサレム派遣の宗教家たちの前でも、「それは君たちが勝手に作った言い伝えに過ぎない」と厳しく拒絶された。

《神の言葉を捨てて》

主イエスの拒絶は当然、で私たちはこの話しを傍観者然として通り過ぎてはならない。パリサイ人たちは、万事を神との関わりで大事に宗教的に、どうすればよしとされるかを考えての細則を設けたのである。私たちはそのような真剣さを生活のすべてに持っているか問われる。礼拝を捧げるに、どのような心構えで、どのように祈り、どのように賛美すべきか、真剣に考えて参加しているだろうか、と。だが、当時の宗教家たちは「自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯す」ような過ちに陥っていた(3節)。両親を敬えとの律法がある。だが神への誓いが親へに義務に優先すると考えた宗教家たちの戒律が、親に提供すべきものだが、そうしたくないので「神に捧げます」と誓うことによって回避できるとしていた。言い伝えが、宗教的衣をまといごまかしの手段とされていた。イザヤの指摘した偽善(8、9節)である。「神のことばを無にする」(6節)は、神の言葉を否定し、規範としての力を奪い、神のみ旨を無視する、等とも言い換えられるが、私たちと無縁ではない。

《心をなおざりに》

神は私たちの心がどこにあるかを問題にされる。洗うべきは手などではない。私たちの口に不満や愚痴、呪いや非難、中傷の言葉を提供する心こそが、清めを必要としている。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」(エレミヤ17:9)。心を直すことは容易ではない。「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう」(同13:23)。だがこのような罪に染まって変わりようのない絶望の中に置かれている私たちを、神はキリストの死と復活を通し、聖霊をお与え下さって、新しくしてくださった(Ⅱコリント5:17)。

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2009/07/21

7月19日ニュース

公 告:船橋聖書バプテスト教会
宗教法人設立総会を8月9日礼拝後に開催します。議案内容については掲示板を参照下さい。 牧師 三澤隆男

★午後集会夏時間:午後集会は夏時間として9月末まで午後2~3時です。

(予定)

★本日礼拝説教は谷井伝道師が当務します。
★今週の水曜聖研は、ヨブ記19章「ビルダテ二回目の主張へのヨブの反論」の学び。
★今週の木~土曜(23~25日)日曜学校では一宮キャンプ、子供たちと父兄教師計30名程参加します。無事故で恵まれた行事となるようお祈りを。
★金曜24日午前、婦人交わり会です。
★一般キャンプのポスターが掲示されています。8月13~15日、講師として熊谷教会後藤守牧師、会場は軽井沢神学校。恵まれた自然と楽しいプロがラムを用意中。多くの方々が参加し、教会形成に大事な交わりと学びが与えられるよう協力ください。
★当教会はかねてから宗教法人格取得の作業を続けてきましたが、いよいよ設立総会開催のめどが立ちましたので、公告のように8月9日に開催しますのでご了解ください。

(報告)

★来月からの集会奉仕担当表(案)が掲示されています。ご覧の上、不都合な場合は集会委員まで連絡下さい。
★教会のホームページがリニューアルされています。なお改良中ですが一覧の上ご意見を書記委員までに。

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7月19日メッセージ「主が私の羊飼いである幸い」

まことに、私の命の日の限り、 いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。 私は、とこしえに主の家に住まいましょう。 詩篇23:6(1~6節)

この大変有名な詩の背景は、サウル王の憎しみを買い追跡され、息子アブシャロムの謀反に直面したダビデ自身が、乏しさを経験したことにあるだろうか。死の恐怖におびえ、戸惑い苦しむ一国の王ダビデが、苦境の中で神への信頼と感謝を込めて賛美した詩である。羊飼いと羊の関係は、神と神の民の関係を象徴しており、自らが羊飼いとしての経験を持つダビデは、主こそまことの牧者であることを表明する。羊飼いに例えられた私たちの指導者である主は、主のもとに来るすべての者を抱いて導き、以下のような幸いを得させてくださる。

《主は私を養ってくださる》

荒廃し砂漠化した地で牧草地帯を探すのは至難のことであり、羊は自力では到底牧草にありつくことはできない。羊は羊飼いに養われる存在である。羊飼いは、羊を牧草地へと導き、渇いたのどを潤わせ、十分な休息を与える。羊は、羊飼いがいる以上は何にも欠けることがないのだ。主が羊飼いである以上、決して欠乏することがないと言う確信と希望がここにある。一方、エゼキエル書には、主以外を頼りとする王、牧者の羊に対する酷な扱いが対照的に述べられている(エゼキエル34章)。「主が私の羊飼いである」との告白は、主がすべての必要を熟知しておられ、提供してくださるので、それで十分であると主を信頼する信仰者の姿である(詩篇34:10)。

《主は私とともにいてくださる》

死の陰の谷を歩くようなことがあっても、恐れることがないのは、主がともにいてくださるからである。ジョン・ウェスレーは死の間際に、「一番幸いなことは主がいつもともにいてくださること」と囁いたという。信仰者には問題のない平坦な道を歩くことが保障されているのではなく、その只中にあっても決して離れることなく伴い包んでくださる主がともにおられる約束がある。鞭と杖は、羊を野獣から守るためのもで、私たちを死の危機から救出するために用いられる。敵の前で、勝利の食事を準備してくださり、宴会を催してくださるのは、死に勝利されたイエス・キリストに他ならない(Ⅰコリント15:55)。主を信頼する者の戦いは勝利が保証されている(ローマ8:37)。

《主は私を祝福してくださる》

「主は私の羊飼い」と告白する者には、必ず、もれなくいつくしみと恵みとがついて来る。いつくしみ(原語でトーブ,良いこと,健やかなこと)と、恵み(ヘセド,契約に基づく愛,誠実のこと)に囲まれて生活することが出来るという希望に満ちた約束がここにある。敵が追ってくるのではなく、主の祝福が後を追ってくるとは何と幸いなことであろう。イエス・キリストは、ご自身を「良い羊飼い」と称し、羊のためには自己を犠牲にしてまでも命を守ると約束してくださっている(ヨハネ10:11)。今朝、私たちは、ダビデの告白を自らのものとし、主が私の羊飼いである幸いに心を留め、このお方への感謝と信頼の道を歩もう。

(谷井伝道師)

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2009/07/12

7月12日ニュース

サマータイム:通常午後3時からの午後集会を、来週から恒例のサマータイムとして午後2時からにしますので、ご承知ください。

(予定)

★本日の礼拝後、7月の例会および主の晩餐を行います。教会員関係者は祈りつつ参加ください。
★15日水曜聖研は、「ビルダテの主張Ⅱ」18章の学びです。
★17日(金)午前、教会婦人会です。聖書の女性たちから、今回は「サマリヤの女」から学びます。祝福されるようにお祈り下さい。
★夏のキャンプが近づいております。今月23~25日日曜学校キャンプ(一宮)の準備と祝福のためにお祈りください。
★一般キャンプは8月13~15日(会場:軽井沢神学校、講師:後藤守牧師)です。恵まれた自然と楽しいプログラムを用意しております。今から夏の計画の中に入れ、多くの方々が参加され、教会の交わりと学びができるように協力ください。

(報告)

★先主日礼拝に英和高校生5名の出席がありました。また配布されたともし火や駅前路傍伝道で、お二人の方が教会にお出でくださいました。
★来年の受験生たち(中学・高校・大学)のため、この夏休み有意義に過ごせるよう祈りをお願いします。
★絵本の会ko.to.baには4組の親子が集い、祝福されたときを持ちました。

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7月12日メッセージ「水の上を歩いて」

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。      マタイ14:25~27(22~36)

《強いて舟に乗り込ませ》

神を信じ、聖書の教えに従ったのに、なぜこのような事態に陥ってしまったのか。無信仰の周囲の人たちは、何の問題も抱えずに羨ましい営みを続けているのに・・・。イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませたのに、舟は向かい風に悩まされ、一晩中苦労することになった。イエスはこの気象状況を予知できなかったのか。この時刻に難儀させるとは不親切ではないか。自分たちは、本当は陸路を行くか、そこに留まりたかったのに、との弟子たちの愚痴が聞こえて来る。しかも命じた方はここにはいない。苦労しているのは自分たちだけ。ではここに見えない主は、何をしておられるのか。山で祈っておられた。苦労している弟子たちをさておいてか。いや、つぶやき、恐れ、溺れる彼らのために、イエスは祈っておられた。私たちは試練を経て本当の信仰に導かれる(エペソ3:19~20、ヨハネ4:42)

《すると夜中の三時ごろ》

5千人の給食という偉大な奇跡、豊かな恵みを経験した後、弟子たちは主を離れ、自分たちだけで舟を漕いで行かなければならなかった。ヨハネ16:7参照。だが主は彼らのために祈っておられた。私たちもまた、小さな舟で、嵐の、夜の海を渡るような時がある。自分たちの手ではどうしようもない。夕方から漕ぎ出し、もう何時間にもなる。だがその旅を命じた方はこのことを忘れない。彼らは主の祈りの中に置かれていた。忘れられてはいない。夜通しの悩みを主はご覧になっている。神の介入、主の助けにも時がある(伝道者の書3:1他)。彼らの自力が尽きた時、人間の可能性が尽きたところに、主は介入なさる。山の上におられるイエスは、湖上の弟子たちを助けるため、湖の上を歩いて彼らのところに行かれた。主イエスの来られない場所はない。罪人の頭と言われるほどの汚れた人の所にも、主はその救いの願いに応え、十字架の橋を設けて行かれる。主の救いの御手は長い(イザヤ59:1参照)。

《イエスのもとに》

予想外の主イエスの出現に、恐れおびえてしまった弟子たちに、主は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる。信仰とは、この「わたしだ、わたしである」と言われる方を、信じ見つめ、行動することだ。安心して終わりではない。ペテロの行動は失敗でもあったが教会のモデルでもあり、私たちに行動を促すものだ。神は、私たちが必要とするなら水の上も歩けるようにもなさる(マタイ22:21)。ペテロは、半信半疑で行動を起こしたのであろう。風が浪を起こすと恐れてしまった。「水の上を歩いて、あなたのところまで来い」(28節)とのイエスの命があるならば、私たちは沈むことがない。周囲に囚われ、イエスから目を離してならない(ヘブル12:2)。ペテロも、そして私たちも沈むことがある。だが決して沈むことのない主イエスが、御手をもって救い出してくださる(ヨハネ15:16)。

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2009/07/07

7月5日メッセージ「彼らは十分に満たされた」

人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。 マタイ14:20、21(13~21)

《神の愛と民の求め》

主イエスは、バプテスマのヨハネ殺害の知らせを受けると、ひとり神の前で静まるために、「寂しき所」荒野に退かれた。問題が起こると、すぐ私たちは騒ぎ立て、人に相談して回る。だが、先ず訴えるべきは神、祈りの時と場所の確保こそが大事だ。預言者たちは、ひとり荒野で神の言葉を聞き、勇気や知恵を得た。イエスもしばしば「寂しき所」に行き、新たな力を得て、人々への深い同情を覚え、時を忘れて癒し、慰め、教えら続けた。夕方になっても働きをやめない。「イエスのあとを追った」群衆を捨て置かない。主を信じ従うところに奇跡が起こる。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける」(箴言8:17、マタイ7:7)。

《私たちの責任範囲》

弟子たちは疲れ空腹だったのだろう。今日の奉仕はこれまで、人々にも帰ってもらって、と言う弟子たちに、主イエスは「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げよ」と言われた。面倒なことは個々人の責任で、と逃げがちな私たちに、この弟子たちの姿勢は似ている。もちろん助けたくないわけではない。だが何せ、教会は貧しい。力も金もない、だからつい「私たちが二百デナリ(二百万円程)ものパンを買って来て、食べさせよ」と言われるのですか(マルコ6:37)と反発し、「パン五つと魚が二匹よりほかはありません」のに、とつぶやく。確かに私たちは無力だ。だが教会の主の手(力)は、短すぎて助けにならないということは断じてない(イザヤ59:1)。「私たちには・・・しかない」の決まり文句で終わってはならない。

《私たちのなすべき決断》

なすべきことは、その「・・・しかない」の「・・・」を主イエスに明け渡すことだ。イエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われる。私たちの問題は「足りない」のではない、今持っているものを「ださない」ことだ。使徒パウロは「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4:7)と私たちの使命を明示し、励ましている。「人には出来ないが、神にも何でも出来る」(19:26、17:20)の事実を、私たちは、自分の持っているものを、神に委ねることで証明して行く責任がある。五千人と五つのパンを比較し分析することは大事であっても、それは傍観者の立場に留まるだけだ。信仰とは、主の業に、自分の持っている五つのパンと二匹の魚すべてで参加することだ。
《人々はみな、食べて満腹した》私たちの、教会の、わずかな食料を、主イエスは祝福された。そして裂かれたパンは五千人のお腹を満たし、さらには12篭に余る豊かさであった。教会には金銀がない、だが主イエスがおられる(使徒3:6)。主は民を養ってくださる。それも豊かにである。だから私たちには乏しいことはない(詩篇23:1~3)。

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