2015/12/31

良きものはすべて神からの賜物

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 Ⅱコリント4:7
 私たちは、自分が何の価値もない粗末な土の器に過ぎないことを忘れてはならない。奉仕や仕事がうまく行けば自分を誇り他を見下し、失敗すれば落ち込んでひがむ。 もともと私たちは罪深く愚かで無力な存在だが、「『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった」(6節)とある恵みに与っている身なのだ。自分に良いところがあって良いことが出来たとすれば、それらはすべて神の祝福の賜物なのだ。 それを覚えて感謝して喜ぼう。断じて己を誇って他を見下すようなことがあってはならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/30

しかし、人が主に向くなら

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。 Ⅱコリント3:16
 この「おおい」は、神に会ったモーセの顔が神の栄光を反映して光を放ったため人々が恐れたので、彼が顔におおいを着けたという故事に由来する。  しかしモーセの輝きがしばらくの間だけであったことは、モーセの律法もまたやがてはキリストの福音という驚くべき恵みの栄光に座を譲るべきものであったことを象徴していた。そして律法に拘る不信仰という「おおい」は、人がキリストへの信仰を持つときに取り除かれる。私たちがなおも着けている「おおい」は数多い。解決しないのではないかという問題へのおおい、人への根深い恨みというおおい、強い劣等感や不満のおおいと・・・。  それらすべてが、主イエスを仰いで信頼し委ねるなら、それらのおおいを主は取り除き、祝福の青空の下に置いてくださるのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/29

教会は厳しさと愛とを必要とする

あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。 Ⅱコリント2:7
 教会において神の名を著しく汚し福音を貶める罪を犯した者を、教会は警告を与えて悔い改めに導き、悔い改めない者に何らかの措置を取ることは、教会の聖潔を保つために大事なことだ。 同時に、悔い改めた兄弟姉妹には、自分たちも神の赦しを受けているようにその人を赦し、仲間として迎えて立ち上がれるように励ましと慰めを提供することが必要だ。教会の戒規懲罰は、教会をキリストの身体にふさわしく保ち、罪を犯した人を再び生かすための大切な措置だ。 愛は豊かであることが望ましい。同時に愛に正義を欠いては、教会は不信仰と罪を助長させ、だらしのない仲良しクラブに堕してしまうことを覚えよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/28

苦難は人を慰める者にする

神は、どのようなときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 Ⅱコリント1:4
 苦しみの中で絶望感に陥るのは、慰めもなくかすかな希望も見えない時だ。そんな苦悩の中にいる者に、聖書は「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」と断言している。 その「どのような苦しみのとき」に、自分の今の場合も当てはまるはずだ。この宣言を信じて神からの解決を待とう。「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです」とある。苦難はまだ解消されてないが、慰めはすでに豊かに注がれている。そして「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」(5節)人に整えられる。  主にあって無駄はない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/26

キリストの復活は、私たちの永遠のいのちを保証する

もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。 Ⅰコリント15:13
 クリスチャンなら誰もが、キリストの十字架と復活とを信じて罪を許され、今は神の祝福の中に生かされていることを感謝している。そしてそれだけに止まらず、死後の天国での永遠のいのちに希望をもつ存在だ。 しかし、今の自分の現実はそうだろうか。目に見える今のこの世界だけがすべてで、神と死後とが視野にないような暮らしに陥ってはいないだろうか。キリストの復活は、十字架の救いの完成を意味するだけではなく、やがて神の御前での永遠のいのちを保証するものだ。地上での生にしか目を向けない者は、結局は「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(32節)という生き方になり、キリストの復活を否定することになる。 天国を、そして神を見上げて今を生きよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/25

聖書を語り聖書を聞く交わりに

ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。 Ⅰコリント14:3、4
 異言は、初代教会に神がお与えになった特異な賜物の一つであった。与えられた異言の賜物を得意げに語って教会での集まりを混乱させていたからだろう、「もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい」(27節)と注意されている。  聖霊の賜物は、すべて教会に集う者たちの信仰を促進し、愛の伴う励ましや慰め、時には忠告を与えて教会を形成して行くためのもので、自分を誇るためのものではない。兄弟姉妹の交わりにおいて、互いに聖書のことば語り合う預言こそが、互いの信仰を強めキリストを証しする。  聖書を語り聖書を聞く交わりを目指そう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/24

愛のない者はまだ子どもと同じ

私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。 Ⅰコリント13:11
 確かに大の大人が、子ども程度の知識しか持ち合わせずに子どもの論法で論じることは滑稽で、誰もそのようなことをしない。だが私たちクリスチャン今、キリストの救いに与った神の国の市民であり、信仰と希望と愛に生かされている者だと自覚しているだろうか。 「たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」(2節)とは、周囲の耳目を集める知識を有し、種々の実践を誇っても、そこに愛がないのなら何の価値もなく、大人ではないとある。 愛をもって話し、愛をもって行動しよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015/12/23

私は教会に属する肢体の一つ

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。 Ⅰコリント12:15
 足は確かに手とは機能が違う。だからと言って、手はからだ属しているが、足は属していないと愚かな主張をする人はいない。からだのどの器官も、皆ひとつのからだに属してそれぞれの異なる働きでからだを維持し、その活動を支えている。 では、クリスチャンの私たちは、教会というからだに属しているという自覚を持ち、教会の機能の一部を担い、兄弟姉妹たちに仕えているだろうか。もちろん健康上の問題や家庭の事情などで、誰もが積極的に具体的な奉仕を出来るわけではない。  大事なことは、私は教会に属する肢体の一つという意識を持ち、教会の働きを覚えて祈り、可能な応援を惜しまずに参加していることだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«懲らしめは反省の促し