2009/07/12

7月12日ニュース

サマータイム:通常午後3時からの午後集会を、来週から恒例のサマータイムとして午後2時からにしますので、ご承知ください。

(予定)

★本日の礼拝後、7月の例会および主の晩餐を行います。教会員関係者は祈りつつ参加ください。
★15日水曜聖研は、「ビルダテの主張Ⅱ」18章の学びです。
★17日(金)午前、教会婦人会です。聖書の女性たちから、今回は「サマリヤの女」から学びます。祝福されるようにお祈り下さい。
★夏のキャンプが近づいております。今月23~25日日曜学校キャンプ(一宮)の準備と祝福のためにお祈りください。
★一般キャンプは8月13~15日(会場:軽井沢神学校、講師:後藤守牧師)です。恵まれた自然と楽しいプログラムを用意しております。今から夏の計画の中に入れ、多くの方々が参加され、教会の交わりと学びができるように協力ください。

(報告)

★先主日礼拝に英和高校生5名の出席がありました。また配布されたともし火や駅前路傍伝道で、お二人の方が教会にお出でくださいました。
★来年の受験生たち(中学・高校・大学)のため、この夏休み有意義に過ごせるよう祈りをお願いします。
★絵本の会ko.to.baには4組の親子が集い、祝福されたときを持ちました。

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7月5日メッセージ「彼らは十分に満たされた」

人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。 マタイ14:20、21(13~21)

《神の愛と民の求め》

主イエスは、バプテスマのヨハネ殺害の知らせを受けると、ひとり神の前で静まるために、「寂しき所」荒野に退かれた。問題が起こると、すぐ私たちは騒ぎ立て、人に相談して回る。だが、先ず訴えるべきは神、祈りの時と場所の確保こそが大事だ。預言者たちは、ひとり荒野で神の言葉を聞き、勇気や知恵を得た。イエスもしばしば「寂しき所」に行き、新たな力を得て、人々への深い同情を覚え、時を忘れて癒し、慰め、教えら続けた。夕方になっても働きをやめない。「イエスのあとを追った」群衆を捨て置かない。主を信じ従うところに奇跡が起こる。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける」(箴言8:17、マタイ7:7)。

《私たちの責任範囲》

弟子たちは疲れ空腹だったのだろう。今日の奉仕はこれまで、人々にも帰ってもらって、と言う弟子たちに、主イエスは「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げよ」と言われた。面倒なことは個々人の責任で、と逃げがちな私たちに、この弟子たちの姿勢は似ている。もちろん助けたくないわけではない。だが何せ、教会は貧しい。力も金もない、だからつい「私たちが二百デナリ(二百万円程)ものパンを買って来て、食べさせよ」と言われるのですか(マルコ6:37)と反発し、「パン五つと魚が二匹よりほかはありません」のに、とつぶやく。確かに私たちは無力だ。だが教会の主の手(力)は、短すぎて助けにならないということは断じてない(イザヤ59:1)。「私たちには・・・しかない」の決まり文句で終わってはならない。

《私たちのなすべき決断》

なすべきことは、その「・・・しかない」の「・・・」を主イエスに明け渡すことだ。イエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われる。私たちの問題は「足りない」のではない、今持っているものを「ださない」ことだ。使徒パウロは「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4:7)と私たちの使命を明示し、励ましている。「人には出来ないが、神にも何でも出来る」(19:26、17:20)の事実を、私たちは、自分の持っているものを、神に委ねることで証明して行く責任がある。五千人と五つのパンを比較し分析することは大事であっても、それは傍観者の立場に留まるだけだ。信仰とは、主の業に、自分の持っている五つのパンと二匹の魚すべてで参加することだ。
《人々はみな、食べて満腹した》私たちの、教会の、わずかな食料を、主イエスは祝福された。そして裂かれたパンは五千人のお腹を満たし、さらには12篭に余る豊かさであった。教会には金銀がない、だが主イエスがおられる(使徒3:6)。主は民を養ってくださる。それも豊かにである。だから私たちには乏しいことはない(詩篇23:1~3)。

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7月5日ニュース

(予定)

★本日は2009年後半の最初の日曜礼拝です。礼拝は私たちが神にささげるもの、神に喜んでいただけるかどうかが常に問われる。私たちは、自分の罪の許しを乞い、感謝と信頼をささげ、み言葉に耳を傾け、新たな服従の決断をする。準備無しの、お客さん気分の、横着な姿勢であってはならない。心して、精一杯の、真剣な礼拝を協力してお捧げしよう。
★月の第一日曜日午後は、教会の伝道活動に捧げましょう。本日も昼食後、駅前に路傍伝道をしますので参加下さい。教会に残る方々も、求道者の方々への祈りや連絡などに協力ください。
★8日水曜聖研は、「エリファズへの反論Ⅱ」16、17章の学びです。
★9日(木)午前、「ko.to.baの会」を開きます。新しい参加者が与えられ、祝福されるようお祈り下さい。
★10日(金)午前、しいの木台集会どす。
★来主日礼拝後、7月の例会を開催します。
★夏のキャンプ(7月23~25日日曜学校・一宮、8月13~15日一般・軽井沢)の準備と参加のためにお祈りください。

(報告)

★先主日も英和高校生7名が出席されました。
★先主日午後、駐車場の除草作業に多くの兄姉が参加。ありがとうございました。

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7月12日メッセージ「水の上を歩いて」

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。      マタイ14:25~27(22~36)

《強いて舟に乗り込ませ》

神を信じ、聖書の教えに従ったのに、なぜこのような事態に陥ってしまったのか。無信仰の周囲の人たちは、何の問題も抱えずに羨ましい営みを続けているのに・・・。イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませたのに、舟は向かい風に悩まされ、一晩中苦労することになった。イエスはこの気象状況を予知できなかったのか。この時刻に難儀させるとは不親切ではないか。自分たちは、本当は陸路を行くか、そこに留まりたかったのに、との弟子たちの愚痴が聞こえて来る。しかも命じた方はここにはいない。苦労しているのは自分たちだけ。ではここに見えない主は、何をしておられるのか。山で祈っておられた。苦労している弟子たちをさておいてか。いや、つぶやき、恐れ、溺れる彼らのために、イエスは祈っておられた。私たちは試練を経て本当の信仰に導かれる(エペソ3:19~20、ヨハネ4:42)

《すると夜中の三時ごろ》

5千人の給食という偉大な奇跡、豊かな恵みを経験した後、弟子たちは主を離れ、自分たちだけで舟を漕いで行かなければならなかった。ヨハネ16:7参照。だが主は彼らのために祈っておられた。私たちもまた、小さな舟で、嵐の、夜の海を渡るような時がある。自分たちの手ではどうしようもない。夕方から漕ぎ出し、もう何時間にもなる。だがその旅を命じた方はこのことを忘れない。彼らは主の祈りの中に置かれていた。忘れられてはいない。夜通しの悩みを主はご覧になっている。神の介入、主の助けにも時がある(伝道者の書3:1他)。彼らの自力が尽きた時、人間の可能性が尽きたところに、主は介入なさる。山の上におられるイエスは、湖上の弟子たちを助けるため、湖の上を歩いて彼らのところに行かれた。主イエスの来られない場所はない。罪人の頭と言われるほどの汚れた人の所にも、主はその救いの願いに応え、十字架の橋を設けて行かれる。主の救いの御手は長い(イザヤ59:1参照)。

《イエスのもとに》

予想外の主イエスの出現に、恐れおびえてしまった弟子たちに、主は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる。信仰とは、この「わたしだ、わたしである」と言われる方を、信じ見つめ、行動することだ。安心して終わりではない。ペテロの行動は失敗でもあったが教会のモデルでもあり、私たちに行動を促すものだ。神は、私たちが必要とするなら水の上も歩けるようにもなさる(マタイ22:21)。ペテロは、半信半疑で行動を起こしたのであろう。風が浪を起こすと恐れてしまった。「水の上を歩いて、あなたのところまで来い」(28節)とのイエスの命があるならば、私たちは沈むことがない。周囲に囚われ、イエスから目を離してならない(ヘブル12:2)。ペテロも、そして私たちも沈むことがある。だが決して沈むことのない主イエスが、御手をもって救い出してくださる(ヨハネ15:16)。

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6月28日ニュース

(予定)

★長年、賛美の歌詞内容を味わうため歌詞カードを作成してきましたが、新聖歌に切り替えます。
★本日は6月最終日曜日、礼拝後に各部に分かれて簡単に近況報告と祈り合いの時をもちます。なお週報発送のためにご協力ください。
★本日は昼食が用意されています。食後、短時間ですが駐車場など教会堂周囲の整備を行いますのでご協力をお願いします。
★本日の作業終了後に青年会を開きます。
★7月1日水曜聖研は、「エリファズ第二回の主張」15章の学びです。
★7月3日午前、夏見集会です。求道者の参加のためにお祈りください。
★来主日午後、船橋駅近くで路傍伝道を行いますので、多くの兄姉の参加をお願いします。
★夏のキャンプ(7月23~25日日曜学校・一宮、8月13~15日一般・軽井沢)の準備のためにお祈りください。

(報告)

★先主日は、朴先生を迎えての春の伝道会、大変恵まれた集会となりました。祈り奉仕くださった方々に感謝。また朴先生の奉仕に感謝し、小岩の東京第一浸礼教会のお働きのために祈りましょう。
★二階台所に新しい大型冷蔵庫が入りました。蔦谷兄のお骨折りに感謝。

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6月28日メッセージ「バプテスマのヨハネの首をはねさせた」

王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。 マタイ14:9、10(1~12)

主イエスのガリラヤ周辺への福音宣教の結果は、パリサイ人たちの反発や故郷の人々の不信仰であった。そしてここに、ガリラヤの領主へロデは、部下のイエスの報告を聞いて、「自分の殺したバプテスマのヨハネの霊が、あの人に憑いているので、あんな奇跡が出来るのでは・・・」と恐れたという、彼の反応が記されている。主イエスの言動を率直に受け取ることが出来ず、いろいろな思惑から、結局、多くの者がつまずいたのである。このヘロデによるバプテスマのヨハネ殺害の記事から以下のことを学ぼう。

第一に、ヨハネは神を恐れ、人を恐れなかった。領主ヘロデは、恋仲になった兄の妻ヘロデヤを迎えるため、己の妻を離縁した。これは明白な律法違反であった。「人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた」(レビ20:21)、また「『わたしは、離婚を憎む。』とイスラエルの神、主は仰せられる」(マラキ2:16)とある。ヨハネは、へロデの悪行を大胆に指摘、非難した。権力に媚びず、神を恐れて人を恐れず、預言者として「然りは然り、否は否」と語った。死の脅しも、王の権力も、ヨハネの口を閉ざせなかった。状況次第で「然りは否、否は然り」と変更するご都合主義者ではない、神を恐れる人だった(10:28参照)

第二に、ヘロデは人を恐れた。権謀術数を弄して地位を確保し、兄の妻さえも奪って側に侍らし、己の誕生祝いに大勢の客を招いた祝宴を催して、人々にその権力を誇示している。そしてその余興に、預言者の首をはねるという狂気の業を行う。それを誰も止めなかった。王を恐れ、止める勇気をもつ家来も客もいなかった。ではヘロデは人を恐れなかったのか。いや「群衆を恐れ」(5節)、「列席の人々の手前もあって」(9節)、彼は己の意に逆らって、つまり人への恐れの中で、行動している。神への畏敬の思いを失った者は、人を恐れて罠に捕らわれてしまう。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29:25)とある通りだ。ヘロデは、ヘロデヤに唆されて、権力の拡大を謀ろうとして失脚、惨めな死を遂げている。

第三に、ヨハネは使命を全うした。ヨハネの使命は、人々に己の罪を自覚させ、悔い改めに導き、来るべきメシヤ、主イエスを迎える姿勢を整えることであった。参照3:3、11、ヨハネ1:29~30。また「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と、イエスを前面に、己を背後に消すことのできる謙虚な人物であった。イエスは彼を、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(11:11)と評された。だがその彼が無惨な死を遂げた。神はどうしてヘロデにこのようなことを許されるのか、正義が敗北したかに思われる。しかしここに人間の卑怯さ、残酷さ、忌まわしさ等、罪の深さを鮮明に示し、キリストの救いの必要性を強く教えている。信仰は、この地上で決着が付くのではなく、さらに深い神の世界があることを教えてくれる。さばきは神に委ね、私たちは誠実に主に従って行こう。

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2009/06/25

6月21日ニュース

(予定)

★本日は、朴点得先生(東京第一聖書浸礼教会牧師)を迎え、午前の礼拝と午後の集いを持ちます。午前は「希望ある家庭つくり」、午後3時からの集いは「希望に満ちた教会」の各テーマで、キリスト教信仰の一端をわかりやすくお話しいただきます。朴先生は24年前に韓国から来日、日本で神学教育を受けられ、神と人とに熱心に仕える牧師です。期待して出席ください。また初めて出席された方々に心から歓迎申し上げます。
★24日水曜聖研は、「ツォファルへのヨブの反論」後半の学びです。
★25日(木)午前10時から教会3Fリビングでオリーブの会(若い婦人方の集い)を開きます。
★来主日午後、教会堂周囲、特に駐車場の草取り整備をしますのでご協力ください。
★夏のキャンプ(7月23~25日日曜学校・一宮、8月13~15日一般・軽井沢)の準備のためにお祈りください。

(報告)

★この時節、英和高校生たちが学校の課題で、教会の礼拝に参加します。福音に触れる貴重な機会が用いられるよう祈りつつお迎えください。

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6月21日メッセージ「希望はここにあり、そこになし」

すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。         使徒3:6~8

 暗い話が蔓延している。ひと頃は新型インフルエンザで戦々恐々とした。依然として不景気は続き、雇用問題や日本のライフラインの脆弱さなどが露わになった。その余裕のない社会が人々を追い詰め、家族間の殺傷事件、無差別殺人などの犯罪が、途切れることなく報道されている。どの事件もその背景に個人を越えた社会のひずみがあり、問題の解消は難しい。人にも、社会にも、あるいは家庭や会社にも、希望を保証する源泉が見当たらない。だが聖書は、私たち誰にでも、確かで、いつでも、豊かな希望があることを告げている。
 
 冒頭の聖書は、使徒ペテロが足の不自由な乞食から施しを求められた際に、その乞食に向かってペテロが告げ、乞食の足が癒されて立ち上がったという事件を伝えている。ペテロには、乞食の生活を支援する金はない。もちろん乞食の足を癒すことも出来ない。でも、死者さえも生き返らせることの出来るキリストがおられる。彼はキリストに希望を置いて宣言したのであった。「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカ1:37)と天使は保障している。だから、私たちはパウロのように神に目を向け、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:13)と、そう言い切ることが期待されている。ペテロは、生きて働く希望を、イエスに見た。

 悪人の野望が次々と叶うのを私たちは喜べない。また私たちの利己的な願望が実現するとしたら恐ろしい。キリストが私たちの希望だということは、願いを叶えて下さるだけでない、私たちの願いを吟味した上で、神の良しとされたことだけを叶えてくださるという意味で、素晴らしい。「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(ロマ7:19)とあるように、私たちは常に悪に傾く傾向を持っている。我が身わが心さえ、私たちは自由に制御できない。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)と慨嘆せざるを得ない。でも、キリストを信じる者は、十字架による罪の許しと、罪の拘束からの解放が与えられる。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ロマ8:1)。そして天国への希望も、である。「私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となる」(テトス3:7)。

 さらに尽きない希望を告げる。「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」(後コリント4:8、9)と、パウロは度重なる苦難の中でも、なお、キリストにある希望を述べている。「人にはできないことが、神にはできるのです」(ルカ18:27)。私たちは、全能の神を信じているのだから。

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