王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
マタイ14:9、10(1~12)
主イエスのガリラヤ周辺への福音宣教の結果は、パリサイ人たちの反発や故郷の人々の不信仰であった。そしてここに、ガリラヤの領主へロデは、部下のイエスの報告を聞いて、「自分の殺したバプテスマのヨハネの霊が、あの人に憑いているので、あんな奇跡が出来るのでは・・・」と恐れたという、彼の反応が記されている。主イエスの言動を率直に受け取ることが出来ず、いろいろな思惑から、結局、多くの者がつまずいたのである。このヘロデによるバプテスマのヨハネ殺害の記事から以下のことを学ぼう。
第一に、ヨハネは神を恐れ、人を恐れなかった。領主ヘロデは、恋仲になった兄の妻ヘロデヤを迎えるため、己の妻を離縁した。これは明白な律法違反であった。「人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた」(レビ20:21)、また「『わたしは、離婚を憎む。』とイスラエルの神、主は仰せられる」(マラキ2:16)とある。ヨハネは、へロデの悪行を大胆に指摘、非難した。権力に媚びず、神を恐れて人を恐れず、預言者として「然りは然り、否は否」と語った。死の脅しも、王の権力も、ヨハネの口を閉ざせなかった。状況次第で「然りは否、否は然り」と変更するご都合主義者ではない、神を恐れる人だった(10:28参照)
第二に、ヘロデは人を恐れた。権謀術数を弄して地位を確保し、兄の妻さえも奪って側に侍らし、己の誕生祝いに大勢の客を招いた祝宴を催して、人々にその権力を誇示している。そしてその余興に、預言者の首をはねるという狂気の業を行う。それを誰も止めなかった。王を恐れ、止める勇気をもつ家来も客もいなかった。ではヘロデは人を恐れなかったのか。いや「群衆を恐れ」(5節)、「列席の人々の手前もあって」(9節)、彼は己の意に逆らって、つまり人への恐れの中で、行動している。神への畏敬の思いを失った者は、人を恐れて罠に捕らわれてしまう。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」(箴言29:25)とある通りだ。ヘロデは、ヘロデヤに唆されて、権力の拡大を謀ろうとして失脚、惨めな死を遂げている。
第三に、ヨハネは使命を全うした。ヨハネの使命は、人々に己の罪を自覚させ、悔い改めに導き、来るべきメシヤ、主イエスを迎える姿勢を整えることであった。参照3:3、11、ヨハネ1:29~30。また「彼は必ず栄え、わたしは衰える」(ヨハネ3:30)と、イエスを前面に、己を背後に消すことのできる謙虚な人物であった。イエスは彼を、「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした」(11:11)と評された。だがその彼が無惨な死を遂げた。神はどうしてヘロデにこのようなことを許されるのか、正義が敗北したかに思われる。しかしここに人間の卑怯さ、残酷さ、忌まわしさ等、罪の深さを鮮明に示し、キリストの救いの必要性を強く教えている。信仰は、この地上で決着が付くのではなく、さらに深い神の世界があることを教えてくれる。さばきは神に委ね、私たちは誠実に主に従って行こう。