12月28日メッセージ「平安のうちに今年を閉じる」
するとシメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目はあなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光り、御民イスラエルの光栄です。」 ルカ2:28~32(21~35)
シメオンという人物の詳細は不明である。だが彼が、聖霊に導かれてイエスを見て「あなたのしもべを安らかに去らせてください」と願ったほどの素晴らしい救いだという、その内容を吟味してみよう。
第一に、その救いは「イスラエルの慰め」であった(25節)。「慰め」という言葉は、旧約聖書では、主にバビロン捕囚からの解放を指す。「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある」(イザヤ51:3)、また「彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから」とエレミヤは述べている(31:9)。その慰めは「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め」とイザヤ66:13で表現されている。新約聖書では同じ意味を持つ「助け手、側にいて支えてくれる、弁護してくれる者」として紹介されている(ヨハネ14:26、15:26等)。
第二に、その救いは「万民の前に備えられたもの」であった(21節)。「備えられた」と過去形であるのは、神の聖定、永遠の昔から予定されていたことがもうすぐ確実に実現することを意味する。イスラエルに与えられる神の救いの御業を万民が目撃し、彼らもまたひれ伏してその救いに与ることになる(詩篇98:1、イザヤ52:10)。確かにイエスは「御民イスラエルの光栄」だが、「イスラエルの多くの人が倒れ」もする。今やイスラエルか異邦人かではない。みな神の恵みの下にある。問題はイエスを救い主として信じ仰ぐか否かである。救い主は、イスラエルの民にとっては「契約」、異邦人にとっては「光」として立てられている(32節、イザヤ42:6)。
第三に、その救いは「安らかに去らせてください」と、一生涯もこの方を見れば十分と言えるほど重大なものである(29節)。シメオンは、人生はこのメシヤを見るためのもの、それが成就すれば「人生のなわめはもう沢山」と言えるほど素晴らしいものだと告白している。「子曰く、朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」との孔子の言う道は、「わたしは道」と言われたイエス以外にない(ヨハネ14:6)。
シメオンは幼子の中に御救いを見て喜ぶ、悔い砕かれた「心の思い」をもった謙遜の人であった(30、35節)。幼子はこの時、神殿で割礼を受け、その母マリヤはきよめの時を過ごし、犠牲を捧げる立場に身を置いておられた。その彼を聖霊に導かれて彼は信じて、「去らせてくださって結構です」と歌ったのである。朝日を見て必ず昼になると信じるように、幼子に救いを見たのであった。
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