カテゴリー「メッセージ2008」の記事

2009/01/03

12月28日メッセージ「平安のうちに今年を閉じる」

するとシメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目はあなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光り、御民イスラエルの光栄です。」 ルカ2:28~32(21~35)

 シメオンという人物の詳細は不明である。だが彼が、聖霊に導かれてイエスを見て「あなたのしもべを安らかに去らせてください」と願ったほどの素晴らしい救いだという、その内容を吟味してみよう。

 第一に、その救いは「イスラエルの慰め」であった(25節)。「慰め」という言葉は、旧約聖書では、主にバビロン捕囚からの解放を指す。「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある」(イザヤ51:3)、また「彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから」とエレミヤは述べている(31:9)。その慰めは「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め」とイザヤ66:13で表現されている。新約聖書では同じ意味を持つ「助け手、側にいて支えてくれる、弁護してくれる者」として紹介されている(ヨハネ14:26、15:26等)。

 第二に、その救いは「万民の前に備えられたもの」であった(21節)。「備えられた」と過去形であるのは、神の聖定、永遠の昔から予定されていたことがもうすぐ確実に実現することを意味する。イスラエルに与えられる神の救いの御業を万民が目撃し、彼らもまたひれ伏してその救いに与ることになる(詩篇98:1、イザヤ52:10)。確かにイエスは「御民イスラエルの光栄」だが、「イスラエルの多くの人が倒れ」もする。今やイスラエルか異邦人かではない。みな神の恵みの下にある。問題はイエスを救い主として信じ仰ぐか否かである。救い主は、イスラエルの民にとっては「契約」、異邦人にとっては「光」として立てられている(32節、イザヤ42:6)。

 第三に、その救いは「安らかに去らせてください」と、一生涯もこの方を見れば十分と言えるほど重大なものである(29節)。シメオンは、人生はこのメシヤを見るためのもの、それが成就すれば「人生のなわめはもう沢山」と言えるほど素晴らしいものだと告白している。「子曰く、朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」との孔子の言う道は、「わたしは道」と言われたイエス以外にない(ヨハネ14:6)。
シメオンは幼子の中に御救いを見て喜ぶ、悔い砕かれた「心の思い」をもった謙遜の人であった(30、35節)。幼子はこの時、神殿で割礼を受け、その母マリヤはきよめの時を過ごし、犠牲を捧げる立場に身を置いておられた。その彼を聖霊に導かれて彼は信じて、「去らせてくださって結構です」と歌ったのである。朝日を見て必ず昼になると信じるように、幼子に救いを見たのであった。

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2008/12/22

12月21日クリスマスメッセージ「キリストを着た、品位ある生き方」

「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」 ロマ13:13(ルカ2:6~7、ロマ13:11~14)

 神は、私たちを救うため、御子を赤子として遣わされた。だが温かく迎えようとする人は皆無に近かった。私たちは当時のそんな対応に悲しみを覚える。では私たちは今、主イエスを迎えるにふさわしいと言えるだろうか。使徒パウロは、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから」と、キリスト到来の近さを知るキリスト者の生き方を教えている。

 当時の生活ぶりは「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活」(13節)であった。これは現代の私たちの生活ぶりでもある。淫乱と好色は週刊誌や繁華街に溢れている。争いとねたみから完全に解放されていると、誰が断言できるか。私たちは、ねたみや争いの被害者でああり、それらを引き起こす張本人であったりもする。そんな「夜はふけて」暗さの増す中で、私たちはキリスト再臨の「昼が近づいて」いることを知っている。だから昼にふさわしい正しい生き方が求められている(13節)。「正しい生き方」とは、慎み深い、気品のある生き方を意味し、ロマ12:2の「この世と調子を合わせない」妥協しない姿勢であり、「主イエス・キリストを着る生活」とも言える。具体的には、次のような生き方と言えよう。

第一、バプテスマを受ける生き方(ガラテヤ3:27)。キリストを心に信じ口で告白して救われるが、バプテスマを受け自分がキリスト者であることを公に示し、教会の一員としての責任を担うことが、キリストを身に着る第一のことである。昼に寝巻き姿で出歩くような、半端な姿であってはならない。気品あるすっきりした姿のキリスト者として出発しよう。

第二、キリストに似た品性を身に装う生き方(エペソ4:24)。キリストは神の位をお捨てになった(ピリピ2:3~8)。自分の権利を主張し、正義を振り回すのではなく、黙って貧しくなられ、謙遜に仕えてくださった(マルコ10:45)。だからキリストを見上げる人には謙虚さがあり、人を自分よりすぐれた者と思う心に満ちているので平和が支配する。「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(Ⅰペテロ5:5)。時を知る、気品ある生き方を求め、主に倣おう(Ⅰテサ1:6、コロサイ3:12)。

第三、誘惑に抗する生き方。「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を身に着けよう」(12節)。エペソ6:11にも「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」とある。夜の寒さや日中の暑さの厳しい地方では、上着は防寒防暑の役目を果たす。キリストを着ることで、私たちは外部からの誘惑に抗し「主にあって、その大能の力によって強められ」守られるのである(同6:10)。

第四、キリスト来臨に備える生き方。終わりの日に、私たちは神の裁きの座に立たせられる。キリストという礼服以外に神の前にふさわしい着物はない(マタイ22:11~13)。「目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである」(黙示16:15)。

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2008/12/16

12月14日メッセージ「キリストを迎えるために」

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。                  マルコ1:2~4(1~8)

《荒野で語られ》 

 福音はエウアンゲリオンと言い、「麗しい、喜ばしい知らせ」の意味だが、それを受け入れる準備は、ヨハネが荒野に現われて始めたとある。聖書では、荒野は重要な意味をもつ。イスラエルは昔エジプトを出立し、40年間のシナイの荒野生活を通して信仰の民に整えられた。預言者エリヤや使徒パウロも荒野で過ごし、深い神との交わりを経験し、使命達成の確信と力とを得ている。主イエスは40日40夜の荒野での断食をもって公生涯を開始し、時折寂しい山野で祈りの時を確保しておられた。
荒野は人の厳しく困難な状況を示す。人は、荒野を通らされて己の力の限界を知る。無力さに呻き、恐怖、悲しみ、不安におののき、絶望の中で、人ははじめて切実に神に助けを求める。また荒野は人の心を暴露する。苛烈な状況に置かれると人は、せっぱ詰まって自分を繕うゆとりを失い、自己本意な本性が出てくる。怒りや軽蔑という、高ぶりの山と思い上がりの丘があり、卑屈と失望の谷が、心に走っている。詩篇106:13~15参照。救い主を迎えるには、これに気付いて平らにしなければならない。

《預言で示され》 

 絶望の荒野で人が求めれば、神がそれを聞かざるを得ない理由はない。人の願いや努力が新たな道を開くのではない。真に新たなものは、神から来る。神の言葉が新たね世界を開き、私たちを新たにする。神は希望の言葉を預言者に託しておられた。救い主に先駆ける者が登場するという約束が、今バプテスマのヨハネの登場で実現した。神の言葉に基づかない希望は意味を持たず、神の言葉に支えられない人の努力は空しい。福音は常に預言の言葉の成就として宣べ伝えられた。聖書に基づかない思考や言動には、神の祝福を期待することはできない。ヨハネ1:1参照。

《悔い改めて》 

 バプテスマのヨハネの使命は、人々にその荒野のような心の荒廃を自覚させ、「罪が赦されるための悔い改め」をもって、キリストを待つように勧めることにあった。それが「道を整える」ことであった。バプテスマは当時、異教徒が聖書の信仰に入る儀式であった。だからユダヤ人は自分たちは真の神の民と自負していた。ヨハネは彼らをも、罪に汚れた異教徒同然の状態と指摘し、神の側に立っていると言える状態ではない、悔い改めが必要だとしてバプテスマを皆の前で受けるように勧めた。
私たちはすでにキリストの救いに与ってバプテスマを受けている。だがヨハネの指摘する罪とその悔い改めは今も必要であり、いや以前に増して必要である。悔い改めるとは、方向を転換することだ。神に背を向けている姿勢を、神に向けて帰ることだ。神には許しがあり、慰めと助けがある。イザヤ35:6~7参照。そこで、神の祝福の約束を味わおう。

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2008/12/10

12月7日メッセージ「宣教の使命」

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 使徒の働き1:8

 初代教会は、復活のキリストを信じて救われ、聖霊の注ぎを受けて信仰者としての力を与えられ、キリストを証するために立ち上がった人々によって始められた。初代教会の特徴は、「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった」(使徒2:46~47)とあるように、信仰による親しい交わりと一致、礼拝と学び、そして福音を証しする宣教活動であった。

 主イエスは「あなたがたは、世界の光です・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:14、16)と、クリスチャンは、周囲の人々に福音宣教の責務を担っていることを教えている。キリストの救いは、それを受けた私一人に留まることを予定していない。神は、福音が私を通して私の周辺に伝わることを期待しておられる。私たちの言動によって、隣人が神を信じ敬うよう促すものとなれと、神は命じられた。私たちの中に、人に抜きん出た立派さなどはない。自分の罪深さ無力さを自覚せざるを得ない。だがそんな私を、神がひとり子を犠牲にしてまで愛し救出されたことを感謝し、それを心から喜ぶ。このことが大事なのだろう。

 また人の心に福音を届けるには、犠牲が必要だ。大声で叫べば相手の心に届くというものではない。「ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)とあるように、神は地上に降りて来られて人となり、私たちの仲間となって、さらには私たちの罪を背負って十字架上で死を遂げられた。神はその愛と真実とを、このような見える形で示された。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」(Ⅰヨハネ4:9)。私たちは犠牲を惜しんで愛を伝えることは出来ない。実際そんなところに愛はないのだから。犠牲をもって隣人に仕え、喜びをもって福音を伝えよう。

 宣教は「教会の窓」とも言われるそうだ。教会が自分たちの事だけにかまけて内向きとなり、外に目を向けなければ窓のない建物のようなものだ。外が見えないだけではない。内部も見えなくなる。伝道に力を尽くさない教会は、教会の主キリストの意向に逆らっている。やがてその教会は福音の意義さえ見失うことになろう。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(Ⅱテモテ4:2)。私たちにとって伝道しやすい時があるわけではない。そんな時を待つのは愚かだ。多分、しにくい時こそ、伝道すべきときなのだろう。

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2008/12/02

11月30日メッセージ「キリストにふさわしい人」

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。   マタイ10:37~38(34~39)

宗教学者の山折哲雄が「宗教の力」という本に、阪神大震災の救助活動では多くの宗教者たちも参加したが、それは宗教家として聖書の言葉、仏陀の教えを、「この世は万事苦しみだ」とか「キリストを信じて救われよ」と説いたのではなく、ボランテヤ活動だけであったと言い、それは宗教的な言葉の権威が地に落ちてしまっている現れだと記述していた。このような世俗化した時代にあって、このことは、私たち信仰者が、聖書を本気で信じ従おうとしているのかが問われていることを示している。

《キリストの弟子にふさわしく》 

主イエスは私たちに問いかける。「あなたが私の弟子であるならば、最愛の家族を捨ててでも、私を愛し従うか」と。主イエスは平和の主で、「平和をつくる者は幸いです」とも言われ、「敵さえも愛せ」と教えている。それなのに愛すべき両親に逆らえと言われることに当惑する。だが真剣に福音に生きようとするなら、必ず敵が現れる。時には肉親の反対もある。それを、まあまあコトを荒立てず、と妥協してコトを済ませてはならないと言われる。肉親への愛を拒否しているのではない。父母を敬え(15:4)、家族を顧みないなら信仰を捨てたことになる(Ⅰテモテ5:8)と教えている。だがキリスト以上に、神を信じて従う以上に、肉親を愛するなら、主に背くことになるとの厳しい警告である。

《肉親への情愛は》

 

家族への愛は、自分にとって大切な人々への愛であって、究極的には自己愛だ。自分の大事なものを慈しもうとするもので、「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか」(5:46)という類の愛に過ぎない。その情愛が伝わらず自分の権利が侵害されたりすると、相手に激しい怒りや憎しみさえ芽生える。遺産の争いや離婚、親子の断絶は少なくない。肉親の情愛や恋人の愛も、罪に汚れていて利己的なものだ。だがキリストは、罪人を許し、敵を愛する方である。この方に従うとき、私たちは肉親への情愛を越えて、敵をも愛する者へのと引き上げられる。

《いのちを得るために》 

キリスト信仰のために損しないようにと生きるなら、それは信仰のいのちを殺すことになる。この段落で主イエスの言われる結論は「私を愛することは、自分のいのちを愛することにほかならない。何にも勝って私を愛していのちを得よ。」である。イエスのためにいのちを捨てるとき、私たちは真実のいのちに生きることが出来る。イエスはこの言葉を傲然と振りかざして言われたのではない。私たちを愛するゆえに、悲しみながらの言葉であったであろう。「主よ。あなたはあなたを十字架につける者を愛しておられます。そして、あなたを愛する者を、十字架におつけになる方です」(レオン・ブロア)。イエスは自分を憎む者に何の要求もなさらず、無条件で愛しておられるが、自分を愛する者には、自分と同じ十字架につけられる愛を求めておられる。

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2008/11/25

11月23日メッセージ「天国の市民として生きる」

異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

Ⅰペテロ2:12(11~17)

一日の労働を終えて、ほっと一息つける家があるのは幸いなことです。天国に住まいが用意されているクリスチャンにとっては、この世は仮の住まいであり、旅人・寄留者として滞在しているに過ぎないのです。ペテロは、天国の市民権を持つものとしての生き方を、「愛する者たち」へ勧めています。

《勧め一、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけよ》
 神との親しい関係を妨げたり、神から遠ざけたりするようなこの世のあらゆる欲から離れているようにとの勧めです。現に、私たちは様々な「肉の欲」に囲まれて生活しています(4:2~3)。霊的な災害から身を守るために、自分の霊的生活を保持する点において敏感である必要があります。

《勧め二、異邦人の中にあって、りっぱにふるまえ》
 「りっぱ」には「外見的な美しさ、質が良い」等の大変素晴らしい意味があります。世の風習や誘惑に染まり、この世との違いがなくなっていくのではなく、「地の塩、世の光」としての役目を大胆に担うことです(マタイ5:13~16)。その結果、自分が賞賛されるのではなく、キリストの香りを醸し出し、神が高らかにほめたたえられるようになるからです。クリスチャンを変り者呼ばわりするこの世は、最後にクリスチャンが正しかったことを認めざるを得ないのです。

《勧め三、人の立てたすべての制度に、主のゆえに従え》
 上に立つ権威は、どのようなものでも神の許しの中にあり、主が定められたものであるから「従いなさい」というのです(ローマ13:1)。社会や学校など制度や家庭のルールを安易に破ったり、神が自分の上に立てられた方への敬意を欠いた言動を許してはならず、改めて点検し従順であることを、神が喜ばれます。信仰上、従い得ないことは上司からの指示でも拒否せざるを得ませんが。

《勧め四、自由人として行動せよ》
 「自由」であることは喜ばしいことですが責任を伴います。私たちは、罪から解放されて神所有の自由の民とされています。だから私たちは、その自由を、主なる神の御心に沿って隣人への愛の奉仕に用います(ガラテヤ5:13)。真の自由は、喜んで神に仕える中にあるとも言えます。

《神の誉れのために》
 これらの勧めに従うことは、神を認めない者たちが神をほめたたえるようになるためです。神に栄光が帰されることです。天国の市民として、この地上にあって神に喜ばれるように生きることが周囲への証であり、伝道の基本と言えます。17節にあるように「生きたクリスチャンの姿」を示すことです。先ず神を恐れ、主の家族である兄弟姉妹を心から愛し、すべての人を敬意を払うように生きることです。私たちの主のおとずれの日が確実に近づいていますので、そのように励みましょう。

(谷井 涙賀伝道師)

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2008/11/18

11月16日メッセージ「恐れないで恐れよ」

だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。      マタイ福音書10章31節(24~33節)

 主イエスは、弟子を派遣する際の注意、励ましを続けて述べる。人々からの迫害を予告される。福音の証人としての人生は安易なものではない。弟子たちの主イエスも「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネ1:11)と紹介されている。世間ではイエスを「ベルゼブル」(悪魔の親分)と呼んで軽蔑し憎んだ。その手下と見られている弟子たちが悪く言われるのは当然だ。ペテロも「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」(Ⅰペテロ4:12、13)と勧めている。私たちの教会は、教会の主イエスと同じ道を歩んでいる。私たち弟子が、師のイエス以上の良い扱いを期待出来ない。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わっ」(ピリピ1:29)ていることを、自覚しよう。

 だが恐れ惑う必要はない。ここに「恐れるな」が三度も記されている。私たちの苦難は、師のイエス以上ではない。またキリストの福音は隠れたままではあることはない。だから今、救いを必要としている大勢の人々に、私たちは恐れずに大胆に語る。からだと魂を滅ぼすことの出来るのは神のみだが、その神が私たちを滅ぼさず大事に扱い永遠のいのちを約束しておられる。小鳥一羽、頭髪一本さえも神の許可無く失われない。だから私たちを憎む人々やサタンを恐れる必要はない。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ロマ8:31、32)。

 だが恐るべきは神である。「そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28)。人は病気や災害、挫折や失敗を恐れ、将来を左右する人や大事な人の気持ち、周囲の評価等が気になり恐れる。そこでは神への恐れが失われている。神こそが、天地を創造し、歴史を導き、万事を支配しておられる方だと信じて恐れなら、私たちの諸々の恐れは消えて、平安が支配する。神への恐れは、私たちから恐れを除く。神への恐れ忘れてはならない。恐れることを怠ってはならない。私たちは神を恐れ敬うことを、礼拝で学ぶ。その参加の態度で、神への恐れを共に表現し、真の礼拝を捧げよう。「あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。」(詩篇31:19)。

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2008/11/11

11月9日メッセージ「良くなりたいのか」

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 ヨハネ福音書 5章6~9節

 人生は思い通りならないものだ。自分の人生は、自分で何でもやって行けるように思える場合がないわけではない。だが考えるまでもなく、子供や上役、隣人が、自分の思い通りになってくれるわけではない。いや自分自身のことさえも、なかなか思い通りには行かない。思うように行かない、どうしようもない事態に直面した時、人は混乱や不安に陥り、自信を失い、絶望や怒り、挫折感を味わう。

 冒頭の聖書箇所の主人公は、38年間も病いに悩んできた男である。しかし病気も長く続くと、病気であることが当たり前になる。治りたくないわけではないが、癒されるという希望を持ちにくい。池の水が動いた時、真っ先に飛び込むと病気が治ると信じられていた池のそばで、38年間も過ごした日々。治ることよりも、飛び込むこと、そのための手助けと方法、それが彼の第一の問題となっていた。そしてそれも自分には無理、かすかな希望もあきらめざるを得ない中にいた。でもその場所以外にどこに彼の居場所があろうか。生きるべき道が見えず、人としての尊厳も保てず、希望も失いかけ、不安を抱え、惰性の日々を過ごしていた。

 そんな彼に、ある日、決定的な転機が訪れた。「良くなりたいのか」と彼の問題に真っ向から問いかけた方が現れた。「そうです。癒してくれますか」と返答されても、私たちはそれに応じられない。だからそんな問いを誰もしなかっただろう。人に出来ることは、せいぜい水に飛び込む際の手助けぐらいだ。だからこの男も、主イエスに愚痴りながら願う、「誰か手助けしてくれれば・・・」と。人は、自分の考える解決方法以外に、思いは及ばない。
だがキリストは単純に言われる。「良くなりたいのか。」そう願うのであれば「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と。

 病気の男は主キリストの言葉を信じた。そして38年ぶりに、1380日の長期間、彼を縛り付けていたベットを、今は逆に頭に乗せて、自力で歩き出した。
治るはずがない。キリストが「立て」と命じたとしても、そうなるはずがない。そう考えて立たないのも、選択のひとつだ。だが聖書の言葉を本気で信じて、その言葉に任せて進もうとすると、神は不思議な道を開いてくださる。ダメに決まっていると自分を縛り付ける思いこみから、神のことばに従って歩む自由な道を選んで行こう。

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2008/11/05

11月2日メッセージ「生ける石、聖なる祭司として」

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。              Ⅰペテロ2:5(4~10節)

 キリスト者に与えられた、生ける石、聖なる祭司としての役目を果たすための心得とその意義を共にみことばから学びましょう。

《キリストは教会の生きた土台です》

 まず、4節に主は「生ける石」とあります。建物は土台が肝心です。見えない部分ですが、見える建物全体を支えています。「生ける石」を他の個所では「選ばれた石、礎の石」と表現しています。イエス・キリストこそが教会の大事な土台石であり、神が主キリストを礎石として据えられたのです。人々は彼を十字架の死に追いやり、捨てました。しかし、彼は3日目に復活され、今も教会の生きた土台として私たちを支えてくださっているのです(Ⅰコリント3:11)。キリストから離れて、教会は立つことが出来ず、クリスチャンの営みもありえません。

《生ける石として、霊の家に築き上げられよう》

 霊の家とは教会を指し、救われた私たちの進むべき道筋・方向が明確に記されています。クリスチャンは教会に召されています。建て上げるためには、労力が必要です。教会を建て上げるために必要な信仰と力は、すべて神が備えて下さっています(エペソ1:22~23)。私たちは、この「建て上げる」という労力を要する働きに参加しているでしょうか。傍観者となり教会を批判し、中傷することに労力は必要ありません。しかし、私たちは、生きた土台であるキリストから活力をいただき、「生ける石」とあるように生き生きとしたメンバーの一人として各自に与えられた賜物を用いて、教会に建て上げられるため聖なる努力が求められています。教会員一人ひとりが互いに愛し合い、尊敬し合うことによって調和が保たれ一致し、組み合わされて教会が建て上げられていく姿は何と美しいものでしょう(Ⅰコリント12:24~27)。

《聖なる祭司として、霊のいけにえをささげよう》

 教会に建て上げられた私たちは、次に聖なる祭司として、霊のいけにえをささげるよう勧められています。祭司の主な務めは、民に代わって犠牲をささげることです。民は祭司を通してのみ、神を礼拝するしかなかったのです。しかし、完全ないけにえとなられたイエス・キリストを信じる者は、すべての罪を赦され、今や聖なる祭司として直接に神を礼拝する特権が与えられました(ヘブル10:10、19、22)。神に喜ばれる霊のいけにえとは、私たち自身です。神に喜ばれる礼拝とは、自らを聖なる供え物として、真心から喜んで神にささげることです(ローマ12:1)。キリストに信頼し、教会に建て上げられ、神を真心から礼拝する礼拝者は決して失望させられません(6節)。さらに、この上ない救いの御業を宣べ伝える者とされます(9節)。それは「生ける石、聖なる祭司」として神が与えて下さった恵みの体験を、証人となって証しすることです。ここに主の栄光が現されます。共に主を拝し、仕えて参りましょう。

(谷井 涙賀伝道師)

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2008/10/28

10月26日メッセージ

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」           マタイ10:16(16~23)

 主イエスは、ここに厳しい迫害に耐え、町々に伝道するキリスト者の姿を予告された。私たちはこの記事から以下のことを学ぶ。

《私たちはキリストに派遣されている》 

 私たちが福音宣教に出て行くことは、私たちの勝手な思いではない。主イエスの命による派遣である(28:19、20)。迫害も、私たちの言動のまずさや、私たちに対する周囲の無理解や罪深さだけに由来するものではない。「わたしのゆえ、わたしの名のため」、つまりイエスのせいで、「連れ行かれ、すべての人々に憎まれる」。羊のような私たちキリスト者を、世の人々は狼のように食い荒らす。神は、私たちをライオンのように強くし、あるいは強い者だけを派遣されたのではない。私たちは愚かで弱い。その弱さを承知の上で、神は私たちを見守りつつ、狼の中に派遣する。イエスご自身も、勇士のように武装して世に来られたのではない。神の真実や愛、力は、この世の強さにではなく、弱さや小ささの中に現される(イザヤ53:2~3、Ⅱコリント12:9)。

《私たちは聖霊に導かれて証する》 

 私たちはキリストを証するために生かされている。その生活自体が伝道である。私たちの周囲のほとんどが未信者で、好意を持っている人ばかりではない。冷淡な、時には敵意の目で探られる。だがいかなる注目も、私たちの生活が眺められているのであれば、それは私たちの信仰を、またキリストを証する良い機会だ。その際に注意すべきは「さとく、すなおに」である。「さとい」とは小利口に立ち回る知恵ではない。神に御旨を伺い、それが正しく行われるように配慮する信仰的の知恵のことである。「すなお」は純粋で潔癖な、裏表のない心を指す。真理に対して一重の心で、まるで幼子のような純に生きることである。そのような人は、偉い人々の前に立って裁きを受ける際に、相手の意図をあれこれと想像し、答えに工夫を凝らして良い結果を、などとは考えない。精一杯「さとく」備えて、後は聖霊の導きに委ねる。信仰の証しに、人の立派さは不要である。むしろ己の罪に打ちのめされ、神の許しを味わった者こそが、聖霊に満たされて神の救いを証する(詩篇51:10~15、Ⅰテモテ1:15)。

《私たちは耐え忍びつつ町々を巡る》 

 「迫害するなら、次の町にのがれなさい」とイエスは言われる。信仰から逃亡してはならないが、迫害にやたらに抵抗する必要はない。イエスもパウロも逃れている(マタイ4:12、使徒9:29)。次の町で再び伝道する。迫害は福音宣教を拡大する。伝道、迫害そして伝道。やがて主イエスが再臨なさる。再臨を上回る迫害はない。またそれまで、私たちが船橋の町すべてに福音を伝え巡り終えることは出来ない。私たちの伝道は、中途半端でもある。だが巡り終えられなくとも、「すべての人々に憎まれ」ても、「最後まで耐え忍」んで伝道を続けるよう、私たちは派遣されている。狼たちも主イエスの愛の中にある。迫害という不愉快で苦しい事態に遭遇するとしても、私たちは羊のように黙々と耐えてキリストを証し続ける(Ⅱテモテ4:1~2)。主の力によって(同17)。

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2008/10/22

10月19日メッセージ「神のみことばを慕いもとめる生活」

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」 Ⅰペテロ1:24~25(1:22~2:3)

キリスト者への神のみこころは、「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」(15節)であることを学んだ。神は、私たちが救われただけでなく、成長することを期待しておられる。では、私たちは何によって「聖なるもの」とされるのか、また、なぜ神のみことばを日々に慕い求める必要があるのかを共に見て参りましょう。

《みことばによって聖化されるから》 

回心を経験した人は、神のみことばを通して己の罪が示され、キリストを信じ自らの口で主と告白することにより、罪が赦されて、永遠の滅びから救われている(ローマ10:9~10)。私たちが、あらゆる行いにおいて清められる唯一の方法は、絶対的な真理である神のことばに「服従」することだ。「真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった」(22節)。「なった」と従うことによる完成した出来事として、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くように、神のことばによって変えられる(詩篇119:9)。私たちは、清められて初めて、兄弟姉妹との相互関係が愛の交わりへと発展する。そこには、清められた心から生まれる真実な愛がある。その愛によって私たちは熱く愛し合うようにと、勧められている。

《みことばによって新生されたから》 

イエス・キリストを信じて救われることを「新生する」と言う。創世紀において、人は、鼻に神の息(霊)が吹き込まれ生きるようになった。だが堕落の結果、霊的に死んだ状態となった。しかし神は、罪人である私たちに、キリストを罪の贖いの代価として与え、信じる者が新生できる道を開いてくださった(Ⅰテモテ2:5-6)。そして、私たちの救いは、私たちのうちに生きて働く神のことばによる(23節)。私たちを取り巻く世界は、日々目まぐるしく変化している。金融危機は全世界的に深刻な問題を誘発し、人の生活は不安にさらされている。不安定な社会は、家庭の崩壊や治安の悪化などを引き起こし、精神面でも人々を窮地に追いやっている。この世で得る功績や地位、名誉なども一時的なもので、美しく咲いたかに見えてもすぐに枯れ消えて行く草花に例えられている(24節)。しかし、決して変わらない「主のことば」がある。イザヤ40:6には、「神のことばは永遠に立つ」とある。神の約束のことばは、虚しく消えて行くことはない。神の計画の時の中、私たちの生活に必ず実現する(イザヤ55:11)。事実、福音はキリストの復活によって完成されたように、希望は神のことば(約束)にあります。このような神のことばに信頼して歩むことができるのは何と幸いだろう。

《みことばによって成長するから》

キリスト者としての成長は、神のみことばを生まれたばかりの乳飲み子のように慕いもとめることによって与えられる。みことばによって、私たちはキリストの姿へと変えられて行く。共にみことばを慕い求めよう。

(谷井 涙賀伝道師)

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2008/10/14

10月12日メッセージ

その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。 マタイ10:12、13(10:1~15)

《使徒の選び》 

 主イエスは、地上での活動を一人でではなく、12人の弟子たちを選んでなさった。神は絶えず使うことのできる手(人)を探しておられ、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と私たちに問いを投げかける(イザヤ6:8)。では主が一晩祈られて(ルカ6:12)選ばれた弟子たちはどんな人物だったのか。ペテロは確かに主に従い忠誠を誓ったが、危険が迫ると裏切ってしまう。金のために同胞を裏切っていた取税人マタイと、排他的な国粋主義のシモンが一緒で仲良くやって行けるのか。さらには主を売り渡すユダが選ばれている。これが悪霊を追い出し死人を生き返らせ、平和をもたらす等の権威を託されるため、イエスに選ばれた弟子たちで、最初の教会を形成した人々であった。イエスが選ばれた根拠は、能力や人格的見識などではない。弟子たちの罪、失敗を、十字架によって贖う覚悟の上の選びであった。

《使徒の権威》

 12弟子は、使徒とも呼ばれ、彼らを通して初代教会が始まった。いわば彼らが教会であり、イエスは彼らに権威を託し、悪霊追放や罪の許しを告げるよう命じられた(1、8、16:19)。教会の宣教を拒絶する者は、汚れた罪のために神に滅ぼされたソドムやゴモラ以上の罰を受ける(14、15)。小さな教会であろうと、イエスに権威を託されている。教会が語る平和の福音を軽んじ無視する者は、神のさばきを招く。人々に救いといのちを与える権威を託されている教会を軽んじてはならない。

《使徒の使命》 

 弟子たちに託された宣教の言葉は「天の御国が近づいた」である。それは、神が支配なさる時が近づいていることで、メシヤであるイエス・キリストが統治される世界がすでに始まっていることを告げることであった。主イエスの支配こそが平和である。だが手近に到来しいていても、御子を信じて平安のあいさつを感謝して受けなければ、入ることは出来ない。天の御国到来のしるしが、病人のいやし、死人の生き返り、悪霊の追放であった。弟子たちは「平安を祈るあいさつ」を家々に告げた。弟子たちは「その(直訳は、あなたがたの)平安」(13)を味わい、喜びをもって語った(ロマ5:1)。

《弟子の心得》 

 主イエスは、後で全世界への福音宣教を命じられたが、今は「異邦人の道に行ってはいけません」と制限された。私たちには、今すべきではないこと、してはならないこと、する必要のないことなどがある。ただ「すればよい」と人間的な判断で動いてはならない。先ず身近な同胞「イスラエルの家の滅びた羊」への伝道が先決・順序であった。また弟子たちの宣教の熱意は「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(8)
にある。パウロは「価なし」の恵みに与って、地中海世界の宣教に出て行った(ロマ3:24、Ⅰコリント15:9、10)。神の絶大な恵みを味わっている者に、神の支配を疑う余地はない。伝道の衣食住は神が当然に補ってくださると信じ、平和の福音を喜びをもって告げる。

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2008/10/07

10月5日メッセージ「キリストの救いを受けた者として」

「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」 Iペテロ1:15(13~21)

 この手紙を書いたペテロは、十字架刑の前夜、群集の目前でイエスを3度「知らない」と裏切った、弟子のペテロであります。イエスの憐みを受け(ルカ22:32)、イエスの昇天後も伝道者として、その生涯を全うした彼は、この書を皇帝ネロが君臨する紀元63-65年頃に記しました。ペテロは、神が、私たちを永遠のご計画の中に入れてくださり、キリストの救いに与らせてくださった(2節)と述べています。私たちが救われたのは、神のみこころを行うためであります。神のみこころは、私たちがあらゆる行いにおいて「聖なるものとされる」ことです。聖なるものとされるとは具体的にどういうことなのか、みことばから見て参りましょう。

《私たちの「聖」とされた立場》 

 「聖」は神の特性であります。生まれながらの私たちは、聖い神の前に誰一人「聖」と見なされることはありません(ローマ3:10)。しかし、キリストを信じる時に、私たちのすべての罪は赦され、神の前に「義」と認められ、「聖」なるものとされるのです。19節にあるように、「傷もなくけがれもない子羊のようなキリストの、尊い血によった」のです。今私たちは、ただキリストのゆえに「聖なるもの」とされ、神の子とされているのです。

《私たちはキリストに倣う》 

 私たちは、「聖なるもの」と見なしてくださる方を意識し、変えられていく(聖化)の必要があります。何も手本とするものがなく、私たちに聖なるものとなるように命じているのではありません。私たちに倣うべきお方がいます。私たちの罪の身代わりとなり、十字架で命を捨て、3日目に死からよみがえり、私たちに永遠の命を得させてくださったイエス・キリストです(2:21-22)。各々が置かれた環境や立場で、主イエスが私の立場におられたら、どのように思い、考え、行動されるか、ということを常に覚えて生活することです(Ⅱテモテ2:8)。

《私たちは神を恐れる》
 
 17節に神のことを「公平にさばかれる方」と記しています。私たちの歩み、それは、外見的な行動のみならず、人目に触れない陰の言動も、心の思いもすべて神は見ておられます。私たちには弁解の余地がありません。しかし、感謝すべきことは、神は公平にさばいてくださるということです。人が見ているから、見ていないからではなく、いつでも愛に満ちた神様の目が私たちを見ていてくださることを覚えることです(詩篇33:13-14)。「恐れる」ことは、積極的な意味では、むしろ主を意識して喜ばすことと言えます。私たちの生活はあらゆる点で主を喜ばすものでしょうか。行いにおいて「聖」とされる必要があります。13節にあるように、キリストの救いを受けた者として、慎んで主のみこころを行うものとなりましょう。

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2008/09/30

9月28日メッセージ

そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 マタイ9:37、38(9:32~38)

《イエスの癒し》 

口が利けないだけでない、悪霊にも取り憑かれて異常な行動をしていた人をも、主イエスは癒された。二人の盲人が癒され出て行ってすぐであった。彼がどのような信仰でイエスに接したかは、記されていない。むしろイエスについて、「こんなことは、イスラエルでいまだかって見たことがない」と人々が驚くほどに、偉大な力を持っておられたことが強調されている。彼はさらに町や村を巡って「あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(35)。メシヤが到来すると「そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる」と聖書は約束していた(イザヤ35:5、6)。その約束が、いま成就したのである。

《イエスの同情》 

だが、主イエスに反感を抱くパリサイ人は、彼を「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と決めつけて拒絶し始めた。彼らは、苦悩の中にある人々に、律法という耐え難い重荷を押しつけていた。人々の悩みに手を差し伸べるよりも、自分たちの主義主張が肯定されるか否かが、重要であったのだろう。
しかし、主イエスは人々を「羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(36)。「弱り果て」は略奪され、苦しめられている状態を指し、「倒れている」は致命傷を受け倒れている様を言う。主は「かわいそうに思われた」。「深くあわれまれた」とも訳されているが、感情の座である「はらわたがいっぱいになる」との意味である。心の奥底から同情と憐れみを覚えられたのである。たとえ自分に反抗し続けるような民に対しても愛することを止めることはできない。「わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか・・・わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている」(ホセア11:8)。私たちの主は、十字架に架けた人々のためにも神の許しを祈られる、真の羊飼いである。

《イエスの願い》 

イエスは「収穫は多いが、働き手は少ない」と言われた。日本の教会は、人々であふれかえっているような状態ではない。閑散としていて、真理に耳を貸そうとしない不毛の時代にも思える。確かに積極的に信仰を求めて教会を訪ね、福音に耳を貸す者は多くはない。ここで主イエスの言われる「収穫」とは、真の羊飼いを知らず、多くの困難を抱え、さまよい歩く人々のことだ。本当の救いを必要としている人たち、収穫は実に多いのである。
私たちは、人が救いに与った時、信仰を持った時に、収穫があった、と考える。確かに最終的には福音を受け入れてこその救いであり収穫である。だがそれは神ご自身がなさることだ。私たちのすべきことは、課題は「収穫を増やして下さい」と祈るのではなく、私の働きをも含め「より多くの働き手を送ってくださるように。苦しみ悩む者に、神の愛を伝える奉仕者を出して下さるように」と祈ることだ。

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2008/09/24

9月21日メッセージ

家にはいられると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。 マタイ9:28(27~31)

この二人の盲人の癒しは、主イエスが、長血の娘を癒し、会堂管理者ヤイロの娘を死から甦らせ、ヤイロの家を出て定宿としていたペテロの家に入られた時に起こった。ここから盲人たちの信仰から学ぼう。

《見ずに信じた》

 ふたりのイエスへの呼びかけは「ダビデの子」で、それは旧約聖書で救い主メシヤを表す言葉であった。当時、盲人など身体の不自由な者は、乞食等で暮らしを立てるのが普通だった。書も読めず自由に見聞きすることで不可能であった二人の、限られた情報と、世間から見捨てられた状況にあるからこそ、物事を客観的に冷静に見ることが出来たのであろう。見えている、分かっていると思い込んでいる私たちこそ、見えず分からずにいる(黙示3:17)。メシヤは、盲人の目を開き耳しいた者の耳をあけ、私たちを嘆きと悲しみから解放される方だと、旧約聖書に約束されている(イザヤ35:3~7)。二人は、その貧窮した生活の中で心の目が開かれ、イエスを「救い主ダビデの子」と告白した。目を開かれたら信じたのではない。見ずに信じたのである(ヨハネ20:29)。

《後を追い続けた》

 二人のイエスへの願いは「大声で」なされた。もちろんイエスの耳に届いたはずである。盲人たちにはイエスと弟子たちの状況の詳細はわからない。ただ一行が動いて行くことが分かるだけだが、二人はおぼつかない足取りで必死に後を追い、大声で願いを訴え続けた。すぐに応答もなくイエスに、足音だけを頼りに従い続けた二人は、救い主を目に出来ないが、聖書のことばを聞いて従い行く者の先例となった。信じると心で決心しただけではない。二人は大声で告白し、さらに足取りもおぼつかない中で後に従い続けた。信仰は心にとどまらず、人前で告白し(マタイ12:32)、祈りが聞かれないように思えても、なお身をもって服従し続けることだ。私の願望、都合、虚栄、満足などを優先させようとする利己心が消え、私たちが神のみ旨がなるように願うまで、神は祈りを聞かれず、訓練の時を与える。参照マタイ26:39。

《神の力を信じた》

 聞かれないイエスへの願いの叫びを、彼らは止めず、後を追い続けることも止めなかった。従い続ける叫びは必ず聞かれる。家に着いたイエスは二人に問う。「わたしにそんなことができると信じるのか」と。問題に遭遇すると私たちは思う。「私にできるか。家族にできるか。誰かできる人がいるか」と問う。だが主イエスは「わたしにできると信じるか」と問われた。信仰とは「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」(マタイ19:26)と信じることである。単に神の全能性を承認するだけではない。その神が、私に関わってくださる。十字架によって罪を許し、信じる私たちを、神の子として守り助けてくださると確信することである。「私を愛してくださる神、私を助けてくださる神」と確信をもって信じよう。ルカ1:37参照。
奇跡はいたずらに宣伝してはならない。人は奇跡を期待し癒しを求める。しかし主は、主に期待し、神に栄光を現すように求める。御利益信仰ではなく、神への賛美と信頼を求める。

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2008/09/16

9月14日メッセージ

夕暮れ時に、光がある。        ゼカリヤ14:7

 この聖句は、キリストの救いを表現している預言の言葉である。夕暮れになっても闇が地を覆うことがない。それを人生のたそがれの時、老齢期にあてはめることも出来よう。大悟法利雄という人は老いを「老醜はありて老美は辞書に無し、あわれなるかな老いというもの」と歌った。これまでの人生に伴ってきた健康や力を失い、今は無力さの上に醜さを重ねる。だがキリストにある人生は「老いてなお光あり、うるわしさあり」だ、と聖書は言う。  

《第一に過去と将来に囚われない》 

 これまで生きて来た長い生涯、本当になすべきことをしてきたのか、悔いのない生き方だったかと問われると、私たちは「そうだ」とは言い難い。だがキリストが十字架で死んで下さった。彼にあって私たちは暗い過去から解放される。また予想もつかない将来を考えると不安は尽きず、思い煩う問題も多い。しかし「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか」(マタイ6:30)とある。この世界は神の支配下にある。誰も「大丈夫だ」と将来を保証できないが、キリストはおできになる。人の負えない責任を、ただひとり負い得るキリストが、助け主を備えて将来を保証し生かして下さる(ヨハネ14:16)。もはや過去と将来に不安の目を向ける必要がない。

《今を最善に生きる》 

 聖路加病院の日野原重明氏は、62年間病む人を看取って教えられたこととして次のように言っている。「人生の大半は苦しみであり悲しみであると言っても過言ではないが、問題はそれをどう受けとめるかだ」と。神を信じるキリスト者は、困難を回避するよりも、その困難を神が承知の上で与えられたものとして受けとめる。私たちの課題は、苦難を避け、都合良く生きることにあるのではない。人生の行路に問題が山積しているとしても、神の助けを求め、その道を精一杯歩むことで、良く生き、良く老い、良く病み、良く死ぬことだ。キリスト者は、万事を益として受けとめる(ロマ8:28)。過去にも将来にも思い煩らわされることなく、与えられた今日を、与えて下さった神に向かって、最上に生き切る。一日の苦労すべき分は、その日だけで十分なのだから(マタイ6:34)。

《希望をもって生きる》 

 毎日に小さな希望を作って生きよう。年老いることは、記憶も動作も行動の範囲も限られてくる。前には出来たことが、今は出来ない。神がその状態を許しておられる。失ったことを数えて嘆き悲しんではならない。私たちの神は、いつでも希望の神である(ロマ15:13)。老いは、世話をする立場から、世話される立場に代わることだ。世話することを喜んでいた人は、世話を受けることに抵抗も少ない。「出来なくなれば若い者の世話になろう。それも不可能なら神さまに生かしてもらう」とおおらかでいよう。確かに、老いは孤立を伴う。伴侶を失い、外出も不自由、住み慣れた所との別離もある。老いの惨めさを理解されず、共感されぬ孤独はつらい。だが環境に甘んじる必要はない。真の友キリストとの深い交わりを経験する貴重な時期でもあり、家族や隣人を覚えて祈り、愛すること仕えることを学んで行く。何よりも希望を地上から天上に求めて自分を準備して行く期間でもある(ピリピ3:20、21)。

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2008/09/09

9月7日メッセージ

イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。             マタイ9:23、24(9:18~26)

《イエスの権威と力》 

「病気や経済的問題も、信仰によって解決しますか?」と、つい先日、知らない方に電話で聞かれ、「うーん、そうですね・・・」と歯切れの悪い回答をした。だがここに12年間も娘を苦しめ、どの医者も治せなかった女性特有の流血、長血をイエスは一瞬のうちに癒し、死んだ娘を生き返らせる。人には時計の針を逆には出来ないが、イエスは、「その子は死んだのではない。眠っているのだ」と言われ、死んだ少女の手を取ると、彼女は目覚めたように起き上がった。
人は経験から判断し現状から考える。だが信仰者は、その枠に囚われない。神の言葉を判断の基準とし、イエスの意向に行動を委ねる。主イエスは死から命を、無から有を産み出される(ロマ4:17)。また主は、人を偏り見ない(ヤコブ2:1~5)。当時の町の有力者で宗教上も指導的立場にあった会堂管理者の要請をも一時棚上げし、汚れた病いにあえぐ無力な娘のために時間を作り、労りと励ましの言葉をかけておられる。

《会堂管理者の信仰》 

当時の会堂管理者は経済的社会的な面で成功者、宗教的にも人望のある人物であった。ここに登場する会堂管理者は、わが子のために見栄も外聞も捨てる豊かな愛情の持ち主でもあった。そんな彼でも、娘の病と死に勝利できない。彼の富や人脈も無力であった。親が少女の死に遭遇するなどあってはならない不条理なことだ。だが、案外と人生には予想もしないことが起こるものである。私たちの立場や富、金や才能をしても、全く役に立たないことがある。そんな深刻な難題から、神のみ業が始まる。会堂管理者は、自分の仲間が、汚れた罪人・取税人の同類と非難していたキリストのところに来て、人前もはばからずひれ伏して懇願した(10:32、33)。イエスが足を止めてもじっと待ち、あざ笑う仲間たちの視線にも動じず、死んだ娘の部屋にイエスを導き、彼が娘を生き返らせてくださるものと信じている(19:26)。

《長血の娘の信仰》 

12年間の病は長い。多くの医師に騙されまた見離された。近所の友も、今はそれぞれに家庭を構え子育てに忙しく理解してくれる人もいない。汚れた病と考えられ宗教上の行事にも参加できない。孤独な彼女のところにも、イエスのうわさが聞こえて来た。空騒ぎに巻き込まれずにいたからこそ真実が見えたのか、彼女は、イエスこそ約束のメシヤだと信じた。ある日、彼女は意を決す。人目に配慮し工夫して、人ごみの中で弱い身体を必死に動かし、イエスに近づいた。汚れた手で聖なる方に触るのは、とためらい、彼の着物の房に触った。願いを込めたその手の一触れを、主は無になさらない。急ぐ一行の足を止め、ねんごろに娘に向き合い、「癒えたのはあなたの信仰の結果ですよ」と、イエスは彼女を励ました。なぜこの娘の大事な青春の12年を長血の病のままになさっておられたのか、私たちにはわからない。だが病は彼女をイエスへの信仰に導き、癒しはキリストに栄光を帰す賛美となった(マルコ11:24)。

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2008/09/06

8月31日メッセージ

また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。              マタイ9:17(9:14~17)

《新しい生活》 

イエスと一緒の生活は、これまでとはまったく違った動機や基準、目標に基ずく新しい生活である。同じ神を信じていたヨハネの弟子たちとも違った行動となったため、イエスが断食もせずに罪人たちと飲み食いしている振る舞いに、彼らが疑念を抱いたのも当然だった。私たちは「いのちにあって新しい歩みをするため」に、イエスと共に死んでよみがえったことを示すバプテスマを受けた。そして「キリスト・イエスにあって生きた者」となって新たな人生に出発した(ロマ6:4、11)。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)とある通りだ。

《喜びの生活》 

私たちとイエスとの関係は、彼が花婿であるとしたら、私たちは彼の新婚の寝室にまで入ることが許されているような親密な間柄にある。そして花婿のような喜びの中にあるイエスの喜びに、私たちも引きずり込まれる。もちろん、取税人たちのイエスについての知識は貧しい。しかしイエスは、人々の悲しみや悩みを熟知しておられ、イエスは彼らにご自分の喜びを与え、よろこびそのものであるご自分をお渡しになったのである。それがここの食卓に実現されていた。マタイは、自分が神に覚えられており、許されまた愛されていることを実感し、大きな感動と喜びを味わった。旧約の予言がここに実現した。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる・・・彼らがみな・・・わたしを知る」(エレミヤ31:33、34)。神の心が人に伝わったのである。

《枠にはまらない生活》 

当時の宗教家たちは神の戒めを熱心に守ろうとした。パリサイ人は木曜と月曜を断食の日にして日中は何も食さなかった。断食は元来、罪深さを痛感し灰などをかぶって自らの無価値さ愚かさを告白し、神の前に恐れをもって出て祈るための、自発的な備えであった。それがいつの間にか断食自体が目的化し、断食の有無が信仰の良し悪しを決めるものと考えられていた。預言者たちが嫌悪していた状況が、バプテスマのヨハネの弟子たちにまで及んでいたようである(イザヤ58:3~8参照)。だが、主イエスと一緒の新しい生活は、人の評価や伝統に拘束されない。喜びといのちの主と生きることは、極めて創造性に富んだものである。それは古い慣習の延長上にあるようなものではない。そのダイナミックな 生命力に溢れた営みは、これまでの生き方にプラスアルファするような、姑息なものではない。伝統の枠に嵌らず、新しい皮袋に全面的に引っ越す覚悟が必要だ。「古い人を脱ぎ捨て・・・神にかどらる造り出された、新しい人を身に着るべきで」ある(エペソ4:22~24)。

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2008/08/28

8月24日メッセージ

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」 マタイ9:12、13(9:9~13)

 福音記者マタイは、ここに自分の救いと召命のことを、そっけないほどの簡潔さで記している。ここから以下のことを教えられる。

《主イエスの召し》 

 マタイが弟子として召しを受け、救いに与ったのは、イエスの「私について来なさい」という一方的な呼びかけによってである。マタイがイエスの説教を聞いていた時とか、神殿に詣でた時でもなく、イエスの元に身を投げ出して悔い改めたときでもない。マタイが金の奴隷のように通行人から暴利を貪っていた仕事の最中に、救いを受けたのである。罪の中にあって、神に心を向けようとしたわけでも彼に、神は救いの手を伸べてくださったのである(ロマ5:8~10)。
さらに主は、弟子に選ぶのに、その人の有能さ、将来性、経歴や立場などを理由にしない。人々がどう評価し、判断しているかも問題にしない。イエスは、有用な者を選ばず、むしろ世間ではくず、厄介者等とみなされている欠けのある者にこそ目を留め、召し出される。「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました」とある通りだ(Ⅰコリント1:28。26~30も参照)。

《マタイの応答》 

 マタイは主の召しに直ちに応答し、「彼は立ち上がって、イエスに従った」とある(9)。彼は、イエスの招きにすっくと立ち上がってその役所を抜け出てしまったのである。信仰とは、主イエスの招きの言葉に直ちに応答し、その場から立ち上がって新しい歩みに踏み出すことである。呼ばれる、だから立つ。回心はそれだけ単純で、また強力なものだ。人々から軽蔑と憎しみの的となっていたマタイが、やがてはこの福音書を書き表し、救い主イエスを「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(13)と紹介した。主は、私を招くためにこの世にお出くださったのだと、深い感謝をもって。私たちも立ち上がって、おりにかなった助けを受けるため、恵みのみ座に近づこうではないか(へブル4:15)。

《パリサイ人の反応》 

 当時、最も熱心に信仰に励んでいたパリサイ人たちは、神の教えにいい加減な連中とイエスが、親しげに食事をしているのを見て、「なぜこのようなことを?」と非難した。彼らは世俗的な風潮に必死に抵抗し、律法による道徳的な生活を守り、信仰の伝統を継承しようと一生懸命であった。私たちも、犠牲を払って誠実に信仰を守っていると自負していると、いつの間にかそうでない人々を裁いてしまう。主イエスは、立派な行いやがんばりの犠牲を喜ばれない。むしろ、自らの足りなさを痛感し、許しを願い、憐みを乞う者を喜んで迎えてくださる。私たちもそのいびつな信仰の枠から出て行って、主の十字架に現れた憐みの心に学ぶ必要がある(ホセア6:6)。

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2008/08/20

8月17日メッセージ「イエスのことばを受けて」

谷井涙賀伝道師
イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。 ヨハネ4:50(46~54)

 王室の役人の息子が癒されたこの奇跡は、イエスがガリラヤに来られてから行われた第二のしるしであった。第一の奇跡は、カナの婚礼の席で、水をぶどう酒に変えられたもので2章に記されている。その奇跡は、その地方に瞬く間に知れ渡り、知らない人はいなかったほどであった。カペナウムに住む王の役人も当然そのうわさを知っていた。そしてイエスが再びガリラヤに来られカナにおられると聞いて、イエスのもとへと急いだ。病で死にかかっている息子を何とか癒して欲しいと思ったからだ。今朝は、この役人の信仰の変化に注目し、彼の信仰に学ぶ。

《イエスに嘆願する役人の信仰》 

 王室の役人ともなれば、最良の治療を施してもらえたであろうが、息子の容体はなすすべもなく絶体絶命の危機にあった。役人は、イエスがカナへ来られていると知るとすぐにそこへ向かった。イエスなら息子を直すことが出来るとの望みを持っていたからである。共観福音書に、ローマ軍の百人隊長のしもべが病を癒してもらう記事がある。ここに登場する王室の役人と百人隊長には、明らかな相違点がある。一つは、役人は自らイエスのもとへ行った。もう一つは、イエスに家に来るようにと願った点である。一方、百人隊長の方は、使いを送って、イエスのおことばをいただかせてください、と願った。役人は、この時点でイエスの力をまだ完全に理解していなかったのだろう。確信できず、ただ嘆願するにとどまった不十分な信仰であったと思われる。

《イエスに信頼し、服従する役人の信仰》

  「しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)との、一見、彼の要請を拒否しているとも思われるイエスの厳しい指摘であったが、実に的を射たものであった。「しるしを見なければ、決して信じないのですか」との問いは、復活の後に疑い深いトマスに現れたイエスの言葉を思い起こさせる(20:27)。イエスは、ここで役人に信仰の本質を悟らせようとしたのである(ヘブル11:1)。信仰の優等生のような百人隊長とは違ったこの役人をも、主イエスは憐れまれた。「来てください。」と懇願した役人へ、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」と、願った方法とは違った形で聞いてくださった。私たちは、自分の願った方法で応えられないと、右往左往したり、不安に陥るものである。主が採られる方法は、時に私たちの予定・予想とは異なる。しかし役人は、このイエスのことばの後は、一言も語らず、ただ信じて帰途についた(ローマ10:17)。

イエスに献身する役人の信仰》 

 役人は、息子が癒された時刻は、イエスが「直っています」と言われた時刻と同じであった事を知った。それで「彼自身と彼の家の者がみな信じた」のである。彼は、ヘロデ家の役人という立場にありながら、家を挙げてイエスを信じた。それはイエスに対する彼の全面的な献身を意味するものと思われる。
イエスの奇跡は、彼がメシヤである「しるし」であった。私たちもこの役人のようにキリストに献身し歩んで行こう。

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8月10日メッセージ

「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。 マタイ9:5、6(1~8)

《彼らの信仰を見て》

他の福音書には、中風患者を運んできた人々は、屋上から屋根を破ってイエスの前につり下ろした、とある。理由は、人がいっぱいで中に入れなかったから、という。でも、他人の家の屋根を破り、イエスが大事な話をしているのをさえぎってである。だがイエスは、彼らの常識破りで無礼な侵入を非難しない。むしろ、病の友のため、イエスは癒す権威のある方だと信じ、時を置かず、必死に運び込む姿に、彼らのとりなしの信仰と愛とをご覧になった。主は何よりも信仰に目を留める(ロマ3:28)。
だが、私のために非常識にまでなってくれる親身の友、必死にとりなしの祈りを叫び続けてくれる人はいるか。今は親子の関係さえ揺らぎ、人との関係も希薄で、孤独感の否めない時代である。しかし、私たちは決してひとりではない。私たちの主イエスは、十字架上で「父よ。彼らをお許しください」と祈り、今も大祭司として、執り成しの業を続けておられる(ヘブル7:25)。教会は、この執り成しの業を継承している。

《あなたの罪は赦された》

病の癒しを求めた者に、イエスは「あなたの罪は許されている」と言われた。深刻な問題の解決を願っているのに、神との平和が何の役に立つというのか、ごまかしではないか。不信仰の世界はそううそぶく。だが罪の赦しこそ、神との関係回復の鍵であり、それは決して安易な宣言ではない。やがてイエスは十字架の苦難を通して赦しの道を開き、その結果として祝福を与えた(ロマ5:5~10)。神からいただく恵みのすべては、私たちの罪や悪を、神が覆い赦してくだった結果としてである。
私たちは、現在の肉の苦悩からの解放だけを求める。だがすべての悲惨の根本原因は罪にあり、神との敵対関係からそれらは生じている。目に見える表層の問題だけの解決を求めても、罪の許しと神との平和がなくては虚しい。罪の赦しがあってはじめて、私たちの身も心も真の平安と健全さを回復する(ロマ5:1、11)。「あなたの罪は赦されている」は何と幸いな言葉か。

《起きなさい》

律法学者たちは、友を思う愛の業、その信仰に応える主イエスの祝福の宣言、それらを目にしながら、素直に喜び肯けない。自分たちの伝統から外れたイエスの言動は承認し難く、律法の外にあるような愚昧の輩の救いなど関心外であったのだろう。イエスは彼らの心中を知り、罪の許しの宣言と病の癒しの業と、どちらが困難かを問うた。両方共に難しい。だが私たちの主は、人々が驚嘆する「こんな権威」つまり罪の赦しと癒しの権威を神より与えられており、それを行使なさる。
私たちの教会にも、天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている主イエスが、世の終わりまで、いつもおられる(マタイ28:18、20)。自立不可能な中風の男は、この権威の下で恵みを得、寝床をたたんで家に帰った。罪の赦しは、彼の人生を支えたであろう。確かにやがてまた病を得て死んだのであろうが、癒しの背後の罪の赦しへの確信は消えることがなかったであろう。

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2008/08/05

8月3日メッセージ

イエスは彼らに「行け。」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ。その群れ全体がどっとがけから湖に駆け降りて行って、水に溺れ死んだ。          マタイ8:32(28~34)

《悪霊につかれた人》

異常気象の被害が、各地で次々と起こっている。原因は、人間の無制限に拡張した欲望で地球を破壊したツケである。罪を犯し神から離れて生きるようになった人の中にも、自然界同様の破壊が進んでいる。悪霊が人の心に入り込み、精神的肉体的に病的な状態にしているからだ。悪魔は、悪霊を用いて神と人との関係を破壊し、人々の精神や生活、健康さえも破壊する。その結果が、近頃頻発している凶暴な事件となっている。
彼らの凶暴さは、人の手どころか、鎖をもっても繋ぎ止めておくことが出来ず、「だれもその(辺りの)道を通れない」状況だった(参照マルコ5:4)。彼らの住まいは「墓場」、人の生活する場所ではない。そこに閉じこもる自閉と孤立、そして時々近くに飛び出して暴力を振るっていた。これは人との健康な関係を築けず、欲求や欲望に固執しながらも満たされず、凶暴な事件を引き起こす現代社会の抱える問題と近似している。

《イエスの訪れ》

イエスが、彼らの住むガダラへの訪問は、忙しい時に嵐の湖上を渡る危険を冒してであった。結果として彼ら二人の救いのための来訪であったが決して失敗ではない(ルカ15:4参照)。イエスは町の人も近づかない乱暴者のわめきの聞こえる不気味な墓場に向って歩まれた。
だが二人は、イエスを拒絶した。病人が手術に恐怖を覚え、暗闇になじんだ目が光を避けるように、悪霊で痛んだ魂には、神の子に接することは恐怖であった。悪霊はイエスを知っていたが、信じていたわけではない。知っているだけなら、その人にとってのイエスは、恐怖か興味の対象、あるいは通りすがりに過ぎない。
だがイエスは、信じる者に対しては「神の力、神の知恵」(Ⅰコリント1:24)である。レギオン(軍団)とも呼ばれるほどの大勢の悪霊に捕らえられていた二人をイエスは憐れむ。助けを求めるどころか拒絶さえした彼らを見捨てず、「汚れた霊よ。出て行け。」と命じ、凶暴な拘束から彼らを開放された。イエスはまさに「救いを得させる神の力」(ロマ1:16)であって、「永遠のいのち」(ヨハネ3:16)を与える救い主である。

《豚の大群》

悪霊どもはイエスに懇願した。彼らは、自分たちがイエスの力には決して対抗できないことを承知していた。どんなに強烈な滅びの力も、主イエスの力に屈せざるを得ない。神の子に直面した悪霊たちは、何とか生き延びようと近くにいた豚の群れに乗り移る許可を願う。イエスはそれを承認するが、同時に豚に彼らを閉じ込めてしまわれた。豚の溺死によって、彼らは滅びた。この悪霊の滅びに至る記事が詳細に記されているのは、悪霊の滅亡を誰もが確認できるような形に、神がなさったことを印象付けようとして、と思われる。
ガダラ人たちは、狂人が普通の人に回復され、癒されて墓場から戻って来たのを見た。そしてもうひとつ、自分たちの財産、2千匹の豚という貴重な財産を失ったことをも目にした。彼らは一人の隣人の魂よりも、自分たちの財産を失ったことの方が大きな問題であった。彼らは救い主を追い払った。

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2008/07/30

7月27日メッセージ

イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
マタイ8:26(23~27)

《弟子たちも小舟に乗り込み》

 イエスと共に舟に乗り込んだ弟子たちは、どんなことが起ころうとイエスから離れない、彼の意向を第一に優先させようと覚悟した上でのことだった。弟子とはイエスと同じ舟に乗り、イエスとその運命も共にしようとする者のことで、小舟は教会を暗示している。
だが、「すると見よ」、人の予想もしない驚くべき神の業が始まった。人の予定は狂い、自分たちの手の負えない事態になった。そこから神の計画が開始される。イエスと一緒の舟は、いつも平穏無事とは限らない。むしろクリスチャンの方が悩みや戦いが多い(ヨハネ16:33)。だが信仰の苦難は無駄とはならない。むしろ私たちの信仰を養い育て(詩篇119:71、ロマ5:3)、福音を前進させ、神の栄光を見させてくれる(ロマ8:28、Ⅱコリント12:9)。教会を他人事のように見做し、共に舟に乗ろうとせず、岸辺で傍観する者は、己の身を危険に晒すことは無いが、「いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚嘆する、生きた信仰の経験も味わえない。

《イエスは眠っておられた》

 多くの人の病を負う方は、人間の持つ弱さをも身に負われ、肉体的な疲れで「眠っておられた」。ではイエスはその間、救い主としての働きを休止し、神としての活動をなさらないのか(参照Ⅰ列王18:27)。いや「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(詩121:4)とある。私たちの神は常に働いておられる。イエスはこの天地の造り主、お言葉一つで万物を創造された方だ。その方が、私たちの揺れ動き嵐に翻弄される小舟に乗り込んで、寝ておられる。だから私たちは、もう滅びに飲み込まれることはない。もう沈む心配も無い。いのちの主が共におられ、彼の眠りが、舟に同乗している弟子たちに、平和と守りのあることを告げていた。
私たちも、慌てふためくことは無い。問題の遭遇し、祈ってすぐに具体的な神からの助け、介入の手が見えないと、私たちは不安に駆られてすぐ騒ぎ立てる。神の沈黙は無意味な時の流れでは決してない(伝道3:1)。

《すると大なぎになった》

 イエスはここで弟子たちの願いを退けてはいない。祈り求めることを主イエスも勧めておられる(7:7)。主が叱っておられるのは、弟子たちの「信仰の薄さ、小ささ」である。それは信仰者の生活の中に潜む不信仰であり、イエス以外の、見えるものに依存しようとする傾向とも言えよう。その小さな信仰は、現実の厳しい危機の中ですぐ消え失せてしまう。襲い来る嵐は、弟子たちの信仰のちっぽけさを浮き上がらせた。湖上の嵐は、イエス以外のものにより頼もうとする弟子たちの一切の心を粉砕した。そしてイエスを仰ぎ見る信仰へと導いた。恐怖に代わって平安を得、嵐に代わって全地の主の穏やかさを味わった(ヨハネ14:27)。「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。・・・私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」詩篇56:3、4。

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7月20日メッセージ

イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 マタイ8:20(18~22)

イエスの権威に満ちた説教を聴き、不治の病を癒す奇跡を見た人々の中から、弟子を志願する者が出てきた。彼らにイエスは次の警告をなさった。

《弟子とは、仕えることである》

 律法学者は、自らを聖書研究の第一人者と自負し、周囲からも尊敬を得ていた。その彼が「先生、私はあなたがおいでになる所なら、どこへでもついてまいります」と弟子入りを願った。弟子は頭で学ぶだけでなく、師の後について行く人であり、常に師の背中を見ながら生きる人のことである。彼はそうしたいと願った。
それに対して、イエスは「人の子には枕する所なし」と応えた。師が世間で高く評価されていれば、弟子も敬意を期待できる。律法学者はイエスの成功に自らの人生を賭けようとしたのだろう。確かにイエスは神から遣わされた約束のメシヤ「人の子」だ(ダニエル7:13)。彼はすべてを支配する権威ある主である。空の鳥や野のゆりは神に養われ保護される。だが人の子は、私たちの「わずらいを身に引き受け・・・病を背負」(17)う方なので、神に敵対する身とされ、故郷を喪失した立場に置かれる。神は「私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:6)ので、「人の子には枕する所もない」。だから、弟子とは名声や奇跡の誇示とは程遠い。彼は、人に仕え、世に侮られる十字架の道をたどる(16:24)。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも」は、決して容易なことではない。

《弟子とは、キリストを第一することである》

 別のひとりは弟子であった。イエスは向こう岸に渡ろうと舟を命じた。だがこの弟子は「父の葬儀があるので」と、師と共に行くことを断った。父の葬儀を軽んじて良いと言うのではない。ただしイエスの「行け」との命令に勝る大事な用件は、私たちには無い。クリスチャンは、「まず行って」を「まずイエスに従って」の枠の中だけに使用すべきだ(6:33)。
人はもっともらしい、さまざまな口実を設けて。「まずこれをやってから、それが終わってから」と、イエスに従うことを後回しにする。永遠に、後回しにし続ける。葬儀は霊的に生まれ変わった人でなくとも可能だ。クリスチャンは、先ずいのちの君イエスに従うことで死に打ち勝つことが出来る。イエスに従ってこそ天国への道を示し、正しく葬る道を人々に示し得る。

《弟子は、従うことによって弟子となる》

 イエスは「わたしよりも父や母を愛する者・・・わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言われた(10:37)。イエスにふさわしい、と言える弟子はいない。いのちや家族どころか、お金や時間、面子や仕事、趣味さえも、イエスに従うことで犠牲にされたくはないと思う。イエスに従うことによって、私たちの信仰は試される。
従うことによって、私たちの信仰がいかにもろく貧しいものかを痛切に思い知らされる。また「枕する所無し」を幾分か経験し、十字架の救いと復活の希望の深い意味に目を開かれる。従い切れない自分が、キリストによってしっかりと捕らえられていることを知る(ピリピ3:12b)。

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2008/07/15

7月13日メッセージ

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」 マタイ8:8(1~17)

 主イエスは、山上の説教(5~7章)で神を信じる人の生き方を「権威ある者のように教えられた」。単に巧みに教えたというのではない。信じる者に、その教えを成就させる権威ある方として語られた。それを証明するかのように、らい病人、ロマの百人隊長の部下、ペテロの姑の、それぞれの癒しの記事が続く。この箇所から以下のことを学ぶ。

《イエスのあわれみへの信頼》

 らい病人は当時、神に呪われた者として社会からも隔離され、近親者などの情けでひっそりと暮らしていた。健康な人が近づいて来たら「私は汚れています」と叫んで警告しなければならず、宗教的な行事にも参加を許されなかった。だから群衆が取り囲んでいるイエスに近づくことは、律法を破る行為であった。でも彼は、イエスが必ず応じてくださるものと信頼している。百人隊長も神の選びの民ではない、ユダヤ人から見れば神の祝福の約束からはみ出した異邦人であった。ユダヤの伝統では拒絶される身であったのに、両者は、イエスの扱いに差別など有り得ぬと素朴な信頼を寄せ、己の罪深さを自覚し、謙虚な姿勢で癒しを願い出た(ガラテヤ3:26~29)。同時に利己的な私の願いではなく、神の意思、神の欲されるならば」と、謙虚に御子の扱いにすべてを委ねていた。

《イエスの権威への信仰》

 二人はイエスからの祝福を確信していただけではない。イエスが意図されるなら、つまり「みこころなら」らい病でもきよめる力を持っている方だと、このらい病人は信じていた。百人隊長は100人の部下に命を下し、指揮する権威を経験している。彼は、イエスが神の御子、天と地をみ言葉で創造された主権者であるなら、イエスの言葉一つでことを動かすことが出来ると信じていた。だから命令が発せられたならば、事が起こるのは時間の問題、異邦人の汚れた自宅にお迎えする資格などはない、ただ癒すとの一言をくださいと願った。するとイエスは「あなたの信じたとおりになるように」(13)と応じられた。救いは観念的なものではない。あなたの信仰をなぞるように救いの事件が起こってくる。

《イエスの癒しへの感謝》

 彼らの外に、多くの者が癒された(16)。これはイザヤの預言したメシヤの到来を証するもので(17、イザヤ53:4)、単に問題が解消するのではない。メシヤが私たちの煩いを代わりに背負い、持って行ってしまうという癒しである。御子は、私の問題、悲しみ、痛みを肩代わりして、悩みの中におられるとは、何と有り難いことか。イエスは言葉だけではなく、膿だらけのらい病人に手を伸ばしさわって癒された。熱病に罹ったペテロの姑の身にも、自らの手を当てて回復させた。彼女自身はイエスの元に赴けなかったが、周囲の人が知らせてくれた(マルコ1:30)。彼女は「起きてイエスをもてなした」(15)。老婦人の感謝の思いは、すぐに具体的な奉仕となって表現された。救いは、たとえ老いていてもそれを受けた者に、意義深い新しい生活を提供する。Ⅰペテロ1:3。

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2008/07/09

7月6日メッセージ

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえて下さいます。 マタイ18:19

 ふたりが心をひとつにしていることは、本当に難しい。他の誰かと、心を一つに出来たらどんなにかすばらしいことか。自分の思うように相手も思い、自分の望むように相手も望み、自分の理解するように相手も理解してくれる。やり方も自分のしようと思っていることと重なっている。そのような状況ならば、いらだちや不愉快な思いは湧いてこない。

 だが多くの場合はそれと逆だ。こちらの思いがなかなか伝わらない。こちらが何とか相手に合わせようとしているのに、相手はこちらを理解せず、いつのまにか行き違いになってしまう。だからつい、やりとりの声も大きくなる。不愉快さが怒りとなり、敵意のこもった沈黙を産む。どうして私の立場を理解してくれないのかと、相手の鈍感さにいらだち、怒りが溜まる。これほど譲歩し我慢しているのに、それをわかってくる人がいない、と思う。
冒頭の「心を一つにして」とイエスが言われた直後に、弟子ペテロが、「先生。私にも我慢の限度があります。何回まで、友のわがままな振る舞いに付き合わないといけないのでしょうか。」と、イエスに不平をこぼしたことがあった。人が互いに心を合わせることの難しさを象徴している。

 彼の問いに対するイエスの答えは、「7度の70倍まで、つまり無限に許しなさい。」であった。本当の許しには、ここまで、という限界がない。7回までなら許そうという姿勢は、一度二度と、怒りを押し込めながら相手の問題に我慢しているだけで、実は許していないのである。回数が7度になったら、仕返しをしようと考えている。相手の不当な行為を、何とか数回まではがまんしよう、だが本来、そのような行為を許しておいては、社会の秩序が保てない。悪やわがままがはびこる、正義が踏みにじられたままになってしまう、と社会正義を持ち出す。私の狭い正義感は、相手の不正を決して許せないのだ。だがイエスは、「無限に許せ。」と言われる。その許しは、私に不正を働いた相手のその不正の罪を私自らが引き受け、その罰をも甘んじて受けようとすることを含む。これは人には出来ない。

 主イエスは、そこでペテロにひとつのたとえを語り、私たちはキリストの大きな犠牲によって「許されている者」であることを教えられた。私たちは、神の御子イエスの十字架の犠牲によって許されている者だが、この自覚があるならば、相手を許すことが出来る、と諭された。私たちには、自分の欠点がなかなか見えない。相手の無礼やわがまま、欠点や罪には気づくが、同じ罪が案外と自分にもあるものである。その自己の罪の自覚と、それがすでにキリストにあって許されていることを知るところに、他者を許す力が湧いてくる。神に愛され、また許されている自己の発見こそが、喜んでの人を許せる源である。この神との関係の発見が、人との好ましい関係を産む。
豊かに許されている自己の発見。謙虚もそこに生じ、兄弟との一致が成立する。その交わりの中にキリストがおられ、天の神の祝福もそこに注がれる。相手を責める前に、許された罪人の自己を、深く自覚しよう。

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2008/07/01

6月29日メッセージ「あなたはどこにいるのか」

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」      創世記3:8~10(1~24)

アダムとエバが、どのようにして神の禁じた実を食べるに至ったかは今日は触れず、神に背いた罪の結果について考えよう。

《人間関係の崩壊》

人間は、神が手づから造り鼻から息を吹き込んでいのちを与えられた、神のかたちに特別に創られた(創世2:7)。神は人間を愛の交わりの中に置かれた(参照Ⅰヨハネ1:3)。そして最初に創造されたアダムとエバは、「これこそ今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」(2:23)と叫んだような愛と信頼に結ばれていた。だが神に背いた結果、後ろめたさに神の前から身を隠すようになり、神もまた、罰として二人を御前から追放された(24)。二人の間も、互いに自己保身に走り責任転嫁を計る醜い関係になってしまった(12、13)。批判、競争、ねたみ、嫉妬、悪意などの罪が、神と人、人と人との間にひびを入れる。だから罪のある私たち人間の集まりには、必ず問題が湧き出てくる。

《存在感の喪失》

今の日本では、多くの人が不安、疎外感と虚しさを感じている。これは若者に特に多い。「ボクがわざわざ世間の注目を集めたのは、今までもそしてこれからも透明な存在であり続けるボクをせめて、あなたの空想の中だけでも、実在の人間として認めて頂きたい。」これは1997年、神戸市で起きた猟奇的な児童殺害事件を起こした中学生の手記である。「透明な存在」とは、存在感が持てないことを意味する。存在基盤の喪失感は言いようのない不安感、寂寥感、空虚感を抱かせる。神から離れた人間は、成功、業績、学歴等の「偶像」を求めて仕えるが、所詮偶像は空しく、支えにならない(イザヤ44:9)。そこで己の存在を何らかの方法で確認しよう、多くの人に認めてもらおうと、存在の確認の手段として、先日の秋葉原の事件のような他害行為にまで及ぶ。
《神の呪いの下に》神は、罪を犯したアダムとエバにすぐ死に追いやらず、猶予の人生をお与えになった。だから地上の人生は明るくはない。大地は呪いを受け、労働に十分な実りをいつも与えてくれるとは限らず、子を産み夫に仕えることも苦悩を伴うことしばしばで、最後は罪の結果として、死の罰を受けるものとなった(16~19)。人間の罪(イザヤ59:1、2)が神の恵みをふさぎ、神の呪いの下にある故に人生の虚しさを痛感する(伝道2:20~23)。私たちの思いを神の助けを仰ぐようにとの忠告である。

《解決のために》

人はこの呪縛から自力では脱出できない。だが神の御子キリストは、人と神との関係の回復のために世に来られ、十字架の死と復活によって救済を提供してくださった。神と人、人と人との関係の修復、完成の道が開かれたのだ(エペソ2:14~19)。人は神につながってはじめて存在の意義を持つことが出来る(Ⅰコリント8:6、コロサイ1:21)。

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2008/06/24

6月22日メッセージ「真に頼るべき方を覚えて」

谷井涙賀伝道師
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 箴言3:5~6
 

時は確実に流れ、今年も折り返し地点を通過しようとしている。年頭に「今年こそは」と、各々が立てた計画や目標を思い起こしていただきたい。出だしは順調であったが、いつものように三日坊主、または道半ばで挫折などということはないだろうか。今一度、年頭の志を新たにし、事を実現に至らせてくださる主に信頼することを御言葉から学ぼう。

《真に頼るべきもの》

「信頼する」ことは、その人に自分を明け渡す、任せるという点で、勇気のいることであり、決死の決断である。旧約聖書の「信頼する」の言葉は、新約聖書の「信仰、信じる」に値する。私たちは何を信じて歩んでいるのだろうか。御言葉は「彼に信頼する者は、失望させられることがない」と明言している(ローマ10:11)。私たちが真に頼るべきものは、天地創造の主である(詩篇24:1)。このお方を本当に信頼して歩んでいるだろうか。
「心」と「悟り」は対応した言葉で、理性や理解、考えを意味する。つまり、私たちを保護し拠り所となってくださる方は主なる神なのだと理解し認識し頼りなさい、ということである。世間的な常識や考え方に支配されてきた「自分の悟り」に従って歩もうとしてはならない。私たちは、目に見える数字、状況から予測できる事態、過去の経験など、人の知恵から判断することが賢明であると思い込んで行動することが何と多いことか。神が支えてくださると、頭ではわかっている。だが、実際に頼るとなると容易ではない。結構自分で何とかできる、そう思ってしまう。それは、神を小さくしてしまうことであり、神は喜ばれない(ヤコブ4:6)。「認める」は「経験する」の意で、実際に主に信頼して歩むことである。私たちの生活のあらゆる局面で、神を仰ぎ信頼する生活をするようにと、神は勧める。

《主が祝福してくださる》

私たちが神を信頼して歩むなら、神はその道を平らかにし祝福してくださる。自分の憶測、知恵、努力、経験が道の障害を除きまっすぐにしてくれるのではない。「主が」とあるように、主なる神ご自身が信頼する者への当然の報いとして、キリストを通して祝福を与えてくださる。無力さを覚え意気消沈してしまう時、全能の神の御力を拝する機会と信じて、全面的に主に信頼して生活しよう。

 どう信頼したらよいのか。まず、信頼していない自分を認め、悔改める。次に、一日の初めに、また事を開始する前に、神の導きと支えを願って祈ろう。そして、教えられた聖書の言葉を実践する。みことばの実践は、信頼する者の生きた証しである。今日を数えて193日残された2008年、事を実現に至らせてくださる主を、改めて信頼し、前進して行こう(詩篇143:8)。

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2008/06/17

6月15日メッセージ「岩の上に自分の家を建てる」

わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 マタイ7:24(24~29)

《権威ある言葉に》

この聖書箇所をもって山上の説教と言われる主イエスの一連の説教は終わる。山上の説教は私たちの生き方を教えるもので、神と人への愛や真実な生き方、物に囚われない自由を教えている。ある意味で人間の理想的な生き方とも言える。だから、これは建前であって、決して現実の私たちには手の届かない理想に過ぎないと言う人もいる。確かに「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とか、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」等の教えは否定できない。でも、自分がその通り生きられるか、振る舞えるか、と問われれば、目を伏せざるを得ない。この箇所を説教する時、説教者は、自分自身が実行出来ないのに語っている、という後ろめたさを覚える。
だが主イエスは、これら一連のことばを「語り終えられ」た(28)。「完成なさった」とも訳せる。群衆が仰天するような「権威ある者のように教えられた」(28~29)。対照的に、律法学者らは、実行の伴わない空しい言葉を語った、とある(23:3~4)。彼らは、人を生かさず、むしろ重荷を人に負わせるだけの、権威のない言葉しか語れなかった。
私たちは山上の説教の教えを、文字通りに実践できるものではない。だが私たちの主は権威をもって語られた。私たちをその教えに招き、言葉を完成してくださる。確かに神の語られた愛や真実に生きることなど、私たちには不可能だ。だがそう諦めることこそ不信仰であり、罪である。ここに語られている人間本来の生き方に、主の権威を手がかりに踏み出すようにと、私たちは招かれている。主の権威は、私たちを罪と絶望から取り戻して、ご自分の言葉を地上に実現されるところの権威なのである(Ⅱコリント5:17)。

《賢い人として》

中国四川省、そして東北に大地震が起こった。建物の基盤の如何の大切さを考えさせられる。「聞いて行う」の「聞く」「行う」は分離できない一連の言葉で、「聞いて行わない人」は「聞いていない、信じない人」のことである。愚かな人は、イエスのお言葉を岩とは思わず、その知恵もない。彼は自分の知恵だけに生きようとし、表土の下にあって見えない岩、イエスに基盤を置こうと考えない。彼は、イエスという岩を抜きにした人生が「砂上の楼閣」を築くようなものとは思わずに進む。
だが賢い人は、見るべきものをちゃんと見て、自分の知恵にではなく、主の言葉を信じ、神の知恵に生きる人のことである。主を信じて生きることと、信じないで生きることは、今はその違いが見えない。明らかになるのは先のことだ。だが賢い人は、イエスの言葉に服従し、彼を土台としようと、「地面を深く掘り下げて」生きる(ルカ6:48)。その二つの生き方は、やがて訪れる試練、あるいは最後の時に明らかになる。人が死を迎える時にも、イエスを岩として生きてきた者の心は慰めの中に揺るがない。

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2008/06/10

6月8日メッセージ「すべてはキリストの福音のうちに」

谷井涙賀伝道師
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 ローマ1:16(16~17)

 クリスチャンを迫害し、教会を荒らし回っていたパウロは、ダマスコの途上で神に捕らえられてクリスチャンになると一転し、今は福音を大胆に証しする伝道者へと変えられた。「私は福音を恥じとは思いません」とのパウロの有名な言葉は、彼の伝道者生涯も晩年を迎えてのものである。あえて「恥とは思わない」としたのは、当時の社会も、十字架で処刑されて罪人が復活して救いをもたらすなどという信仰を、「愚かな教え」とあざける背景があったからだ(Ⅰコリント1:18)。この状況は現代も変わらない。しかしパウロは投獄されてもキリストの福音を誇りとし、福音に生かされていることを喜んだ。パウロは、キリストの福音のすばらしさを味わったからである。春の伝道会を前に、私たちもそれを確認しておこう。

《キリストの福音には、神の義が啓示されている》

 福音は、キリストの死と葬り、そして三日目の復活に依拠している(Ⅰコリント15:3-4)。何故、これが「嬉しい知らせ」なのか。それは、この福音を受け入れキリストを信じるなら、その人の罪が赦され救われるからである。「救われる」とは「神に義と認められる」ことで、罪によって破壊された神と人間との本来の関係が、正常な状態に回復することを意味する(5:1、イザヤ51:5)。その結果、魂は癒され、健全にされ、生きる喜びと人生の目的が与えられる。人が本当の意味で生きる者とされることである(5:2、3参照)。神の戒めを守る、善行を積む、などの努力によって、人は決して神に正しいものと認められることがない(ローマ3:23)。だが神は、私たち罪人が神の前で義と認められる唯一の道を、キリストによって開いてくださった。神は、私たちに求められる義を、ご自分のひとり子の犠牲によって与えてくださった(ヨハネ3:16)。私たちの義は、神の愛の贈り物である。

《キリストの福音には、神の力が現されている》

 パウロは、神の無限の力、全能の力は、福音に現されていると言う。それは、信じる者すべてに救いを得させる力であり、キリストを死者の中からよみがえらせた力である(エペソ1:19~20)。福音はキリストの復活によって完成した。この、人の理解を超越した救いの業に、神の愛と力を見る。神は、死の壁を越える力ある方である。絶体絶命のように見える状況を逆転させ、そこに平らかな道を用意し、絶望ではなく希望を与える。神が味方であるなら、何を恐れることがあるだろう(8:31)。神の守りの手は、私たちの信仰の始まりから終わりまで、つまり私たちの一生涯に及ぶ。主の手から私たちを奪い去ることは誰も出来ない(ヨハネ10:28)。

 終わりの時が、もうそこまで接近している。福音宣教の業は急務だ。これを託された者にしか出来ない。今遣わされている所で各々が福音に生かされていることを喜び、この嬉しい知らせを伝えよう(ローマ10:14~15)。

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2008/06/03

6月1日メッセージ「木はその実によってわかる」

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 マタイ7:16、17(15~23)

《偽預言者への登場》

いのちに至る狭き門を通るためには、犠牲を覚悟するだけでなく、その門や道が世俗的な思いに囚われている私たちの目に見えにくい、聖霊の導きが必要だと言うことを先に学んだ。もっとも、その狭い門もくぐってみると案外と広く楽しい道であることに気づく。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(11:30)。教会の主イエスは、私たちのためにその見えにくい門を示し、困難な道中を励ますために、信仰の導き手として「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです」(エペソ4:11)。
だが真の預言者のいるところに、「これが神の言葉だ」と勝手に自分の意見を語る偽りの預言者が出てくる(24:24、Ⅱペテロ2:1~、)。彼らは教会を荒らし混乱に陥れ、貪欲な狼のようにクリスチャンたちに襲いかかる(使徒20:29~31)。偽預言者は今も、この教会にも登場する。

《偽預言者の見分け方》

確かに、偽預言者は巧妙に私たちを偽りの道に誘い込むのだろう。羊のなりをして来るが「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」とあるように(ヨハネ10:27)、実によって見分けられる(20)。では預言者の実とは何か。

第一に、生活の実が問われる。神の人であるならば、指導者として先ず、御霊の実を結んでいるかどうかである。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22、23)だが、それを求め、この山上の説教の冒頭にある「心の貧しい、悲しみ、柔和さ、義に渇く、あわれみ深い」などの謙遜な姿勢が求められる。

第二に、真理の御霊に導かれているかどうかという教理の面で判定される(ヨハネ16:13、Ⅰヨハネ4:1~3)。もちろん口先で「主よ、主よ」とわめく者もいる。だが真実にキリストを己の主と仰ぎ、その御旨を重んじそれに従って歩もうとしているか否かである。たとえ悪霊を追放し、奇跡を行うというような大きな業を行っていても、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」でなければ無意味である。

《偽預言者は今どこに》

では現代の教会で、誰が偽預言者なのか。彼らは決して教会の外にいるわけではない。では偽預言者になる可能性のある者は牧師・伝道者・教師などの教会の指導者のことだろうか。その可能性は小さくはない。この主の警告を厳粛に受けとめ、自己吟味が常に必要であろう(ヤコブ3:1~2)。だが指導者たちを疑心暗鬼に疑うことを、主イエスは勧めているわけではない。これらの警告の言葉は、私たちクリスチャン全体に向けてのものととるべきであろう。偽預言者にならない保証は誰にもない。

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2008/05/27

5月25日メッセージ「狭き門から入れ」

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 マタイ7:13(13、14)

《人生は決断によって形成される》

人生は、今日の朝食は何にするか、今度の休日にどう過ごすか等から、家の購入、職業の選択、誰と結婚するかまで、大小さまざまな決断の連続によって構成されている。しかもその決断が、正しい、間違っていない、と断言出来る決定的な保証が、いつもあるわけではない。他の人もやっているからと真似したり、なるようになると任せていたのでは、本当の自分の人生を作って行くことは出来ない。自分の人生を確保するには、他人の言いなりや世の流れに流されず、恐れが伴うが自分で決断し、自分がその決断の責任を負う。
その判断の際にも神の導きを求め、選んだ道の困難な時には神の助けを仰ぐ。「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(箴言19:21)。だが私たちは利害やメンツ、自分の好みで選ぶ。そうなると巧みな知恵をめぐらし、緻密な計画を立てて自分の選択の成功を画策するようになり、己自身の罠にかかる(前コリント3:19)。
私たちの人生の最大の決断は、キリストの救いを受け取ることである。それが確かな人生と永遠のいのちの祝福につながる(イザヤ58:11)。

《狭い門、細い道を選ぶ》

モーセやヨシュアは、自分の死を前にして人々に決断を迫った。いのちと幸い、死と災いを、神は備えておられる。民が主の戒めに歩む道を選択するか否かで、そのどちらを受けるかが決まると(申命記30:15~16、ヨシュア24:15)。
信仰の道は容易な道ではない。厳しくつらい、少数派の道でもあって、誤解や非難を受けやすい。人間の放縦な、欲望の赴くままの態度では、歩むことは出来ない。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタイ16:24~25)。主への信頼と、主からの助けが必要であり、また私たち自身の犠牲の覚悟が必要である。安易な道ではなく、つらく厳しい道を選択しよう。

《狭い門は隠れており細い道も見えにくい》

では、これは「苦あれば楽あり、成功はつらい道のゴールにある、修練の果てに練達あり」という通俗的な教えなのだろうか。主イエスはそのような人間の努力を求めているのではない。狭い門を、多くの人が目指す競争の結果の狭さと勘違いしてはならない。いのちに至る道を見出す者はまれ、とある。私たちは、信仰の狭い門、細い道を理解していない。パリサイ人たち信仰の専門家たちは「見える、わかっている、と言い張ったところに、あなたがたの罪がある」と主に指摘された(ヨハネ9:41)。いのちの道は、人には見えない。人間の罪の故の深い無知の結果である。その無知が主を十字架に追いやった無知でもある。神以外に頼る者がないという道、それこそが狭い道である。だが人は目に見える、頼り甲斐があると一般に信頼されているものに目が行く(イザヤ30:15)。悔い改めて、キリストの辿られた道を歩もう。

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2008/05/20

5月18日メッセージ「創立41周年記念日」

藤野千郷牧師/名古屋サウスサイドバイブルバプテスト教会
こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望の  ためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。                         第一ペテロ4:2
 

 私たちの教会は開拓開始から、この5月第二日曜日で41年目に入った。教会として習志野バプテスト教会から独立して36年目に入る。この伝道開始41周年を記念する礼拝に集って、私たちは何を今思うべきなのだろうか。開拓当初の思い出や苦労話、数々のエピソードを拾い出すことも意味無しとはしない。非力で信仰も浅い者たちが集まって始められた教会が、40年間倒れることなく消えてしまいもせず、今日まで継続し、多くの兄姉たちが加えられていることは、まさに神の奇跡としか言いようがない。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:13)。

 確かに、神の恵みを数えて記憶することは、私たちの義務であり、教会の歩みにとっても力ともなる。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩103:2)。だがそれに勝って大事なことは、最も基本的な姿勢、キリストの体として、頭なるキリストに忠実な態度を堅持しているかという点検である。

 「人々は人の子(イエス)をだれだと言っているのですか」とのイエスの問いに、弟子たちは「生ける神の子キリストです」と答え、その生涯を神に委ね、キリストへの忠誠に生き抜いた(マタイ16:13)。現代は個性が尊重され、自己主張が正義とされがちだ。それには大事な側面もあるが、わがままの助長、放任にもなりかねない。そんな世情が教会にも反映し、キリストに対して、優しい助け手の役をのみ許しているような状況にはなっていないだろうか。

 聖書の信仰者たちは、自分の願望を神に押しつける代わり、「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう」(詩篇104:34)と願い、「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」(詩篇143:10)と祈る。

 祝福を求め、抱えている問題の解決を求めることは間違いではない。だが万事に私たちの好都合な進展を望むことは、欲張りであり自己本位であるだけではない。破滅と堕落に至る危険な道にもなりかねない。私たちの心は常に悪に傾き、虚栄を求め、安易な道を歩もうとするのだから。そこには節制や忍耐、深い洞察も生まれず、人としての成長より後退と退廃に至りやすい。

 「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」(ヨハネ6:38)。万事を益として下さる神に、そして私たちのためにご自分のすべてを犠牲に供して下さった方に、教会として感謝と信頼をささげ、生活の全面においてキリストに従い、生涯を委ねて行く決意を捧げよう。

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2008/05/13

5月11日メッセージ「自分にしてもらいたいことを、人にする」

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。 マタイ7:12(7~12)

《ほかの人にも》

上記の言葉は一般に「黄金律」と言われ、クリスチャンの行動原理を表現している。隣人愛の最も簡潔な表現とも言えよう。確かにこの言葉は素晴らしい。これに従いたいと思いはする。だが現実に実行は難しい。罪ある私たちには、「自分にしてもらいたいこと」は山ほどあるが、隣人にしてあげたいと思うことは少ない。ないわけではなくとも、先ず自分にしてもらいたいという、自己中心的な思いから抜け出難い。羽仁もと子(自由学園創立者)は、人の心には「よし、やってみよう」と、「やったってダメだ」という二つの動力がいつも働いている、と書いている。そして多くの場合「どうせダメさ」が勝っていて、人の心は重く暗くなってしまうのだと。「どうせ自分にはできっこない」という思いは、人の心に巣くうばい菌のようなもので、神の力を信じない罪の心でもあると、彼女は述べている。

《求めよ》

確かに私たちは罪深く無力だ。しかし神は、その光をもってばい菌を死滅させ、「やってみよう」という信仰の心を奮い立たせてくださる。「求めなさい」とは、私たちに欠けがあり、問題があっても解決の手だてがなく、知恵も浮かばない、お手上げのところからでも始められるから、との神の招きである。自力で獲得するのではない、神は、父が子の求めに応じるように、与えようと待っておられる。イエスは「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」と、放り出さず、諦めず、中断せずに継続することを命じる。求める相手が神にしかない人だけが、神に祈り続ける。ルカ18:7参照。考え、思い、勉強するだけでは足りない。だから自分の無力さ弱さに諦めず、神に向かって求め、探し、叩き続けよう。

《信頼して》

単なる願望はこちら側からの願いでしかなく、相手への信頼もなく、与えられるという確信もない。だが「求めよ」との招きに応じて求め続けるところには、神への信頼が生き生きとしている(21:21参照)。神はここで私たちに、「あなたがたは今や私の子だ。父である私が、パンや魚を欲しがる自分の子に、石や蛇を与えるはずがない。求めよ、与えるのだから」と約束された。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」(ロマ8:32)。私たちはつい「いつ、どのように」と答えをもって求め、自分で開けようとするが、扉のカギはこちらからは開けられない。見つけ出させるのは神である。素晴らしい形でふさわしい時に、神は答えをくださる。「主の山の上には備えがある」(創世22:14)。
私たちの思いを越えた、神の備えの祝福を知った時(エペソ3:20)、他人に迷惑をかけないという消極的な態度ではなく、隣人の喜びに生き、隣人を喜ばそうとする人間本来の愛に道が開かれる。

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2008/05/08

5月4日メッセージ「人をさばいてはならない 」

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。 マタイ7:4、5(1~6)

私たちはよく「人を裁く」。ケチをつけ、批判し、問題点をえぐり出す。この痛快な作業を通して、自分がその人の上にいるかのように思えてくる。井戸端会議で、仲間内の集まりで、私たちは誰か身近な人を誉めることは少ない。けなすことが圧倒的に多い。この個人的なさばき、批判の禁止命令は以下の理由からである。

《さばきは間違うから》

人は案外と自分自身が見えない。自分のにおいに気づかず、人のにおいに敏感だ。自分の目に梁という大きな木材が入っているのに問題としないで、相手の目にある小さなチリを取り上げて批判している、と主イエスは言われる。私たちが誰かをさばく場合、自分に何の欠点もないから出来るのだとは思っていない。ただ、自分の欠けはチリだが、彼のは梁だ、彼のほうの欠点がずっと大きい、だから忠告し、問題としているのだと、そう考えている。だがイエスは言われる。「あなたの目には梁がある」と。私たちは公平に裁いていると思っているが、案外と偏った判断を下しており、その真相や将来、本質を案外と知らない。自分の好き嫌いやわずかな知識、また直感で裁いてしまう。さばきは主に委ねよう(ロマ14:10)。

《さばきは分離を産むから》

「さばく」は「切り分ける」と言う語に由来し、それによって真と偽、善と悪を分けることを意味する。さばくことは、相手と自分との間に距離を作る。イエスは私たちを裁かず、私たちの罪をご自分のものとして背負ってくださって、一緒になる道を開いてくださった。私たちも、兄弟隣人に距離を置き、その観察者となってさばくのではなく、兄弟の罪に対して責任を感じ、その助けとなる道を考えるようでありたい。無責任な評論家のように、自分を安全な立場において、隣人の欠点を拾い上げ、教会の問題点を指摘するものであってはならない。愛は隣人と距離を作らず、観察もしない。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテヤ6:1)。

《あなたもさばかれるから》

私たちは、自分は公平に見ている、間違った発言はしていない、そう自負し勝ちである。だがそうだろうか。相手と自分を比べてその善し悪しを言っているだけでなく、今、私たちは神の前に立っていることを自覚しよう。私たちは自分のさばいたその秤、基準で神にさばかれるとしたらどうであろうか。主は、私たちの目には梁がある、大きな罪が、欠点が、現実にあると言われる。神の目によるこの判定を誰も覆せない。相手よりもはるかに罪深い自分、これを自覚しているのがクリスチャンである。悔い改め、謙虚に隣人に仕える中でこそ、はっきり見えるようになって「あなたの目のちりを取らせてください」と相手に仕える者として言えるようになる。

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2008/04/30

4月27日メッセージ「思い煩わないで」

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイ6:34(25~34)

 「心配」という言葉が、この短い箇所に6回出ている。原語は「思いが分裂する」の意で、「思いわずらい」(口語)、「思い悩み」(新共同)とも訳されている。私たちは天に宝を積むどころか、今日の衣食住に追われている。もっとも、人の心配事の90%は現実に起こらないそうだが、起こる可能性のないことで私たちは思い煩って無駄なエネルギーを費やしている。この心配からの解放を、主イエスはここで教えておられる。

《空の鳥を見よ》 

空を飛ぶ鳥、野に咲く花、それらを「見なさい」とあるが、何を学ぶのか。鳥の羽の美しさ、空を飛びかける能力に不思議を感じる。枯れ果てたと思った野のゆりが、季節になると再び可憐な花を咲かせている生命力にも驚かされる。それらを見て学ぶのは、食糧の確保のために何も出来ず、美しさを装う力は何もないという、彼らの無力さである。無力さだけなら、私たちも痛感する。そして劣等感や絶望、弱音になる。
しかし主イエスは、その無力さの中に、神の無限の配慮があって、彼らは空を見事に飛翔し、野に美しく揺らいでいる。劣等感は自分の本当の無力さを知らず、どこかで人に勝ってやろうという傲慢がある。人との比較があるだけで、どこにも神が見られない。真の無力を知って神に信頼するとき、私たちは神の力を経験する。マタイ6:32、Ⅱコリント12:9参照。

《神がよくしてくださらないわけがない》 

神は私たちの必要の一切をご存じである。人は鳥や野の花にはるかに勝った存在として造られた。神のかたちとして、世界を治める責務を与えられ、御子の代価で買い取られている。そして「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしよう」と、私たちの願いに耳を傾ける約束をもされた(ヨハネ14:14)。
わざをなさるのは神であり、その神の懐に憩うことが私たちの務めである。ただ神のご支配の仕方は、私たちの考え方、私たちの願っている方法と、必ずしも一致しない。神のなさり方、神のご計画は人の思いを越える不思議なものである。主はイスラエルの民をしばしば窮地に導かれ、彼らの信仰を試され、またご自分の救いの力を証しされた。神は特別の方法で私たちを導き、恵みを施される。幼子のように信頼しよう。詩篇94:18、19。

《労苦はその日に十分だ》 

思い煩いからの解放される最後の方法は、今日を精一杯に生きることである。心配しすぎる人は、案外と今を誠実に生きていない。今を大事にしないで将来を手に入れることは出来ない。明日という時は神の支配の中にある。私たちには、今を委ねられているだけなのだから。クリスチャンは過去にぐちぐち捕らわれず、将来の不安におののかず、恵みの神の支配を信じて今を精一杯に生きる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)。

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2008/04/22

4月20日メッセージ「あなたの宝のあるところにあなたの心も」

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 マタイ6:21(19~24)

《マモンに捕われて》 

イエスは、日毎の必要を求めよと教えられた。私たちには、隠れた所で見ておられる父がおられ(6、18)、その方は私たちの必要をみな知っておられ、それを満たしてくださる(32、33)。ところが私たちは、その与え主を忘れて思い煩い、宝を求めて狂奔する。
この宝は、金銀財宝というより、生活を保障するように思えるものを指す。ルカ12章の喩えの、愚かな金持ちが長年分の食料を確保できた時、「さあ、これで何年も、安心して生きられる」と言ったが、その意味の宝である。これからの生活の保障、生涯に満足を与えてくれそうな職場や資格などである。
特に24節の「富」は「物神」とも訳される魔力的な偶像である。人は往々にして与え主である神を忘れ、自分の生活の土台は富や宝にあるもの、と勘違いし、神への信頼を失ってマモン神に支配される。そして人は物欲の虜に成り下がり、使用すべき財貨に逆に支配される。生きるための手段であるべきモノが、生きる目的となる。神を忘れる時、人はマモンの虜となる。

《澄んだ目で》 

マモンに惑わされ、地上に宝を積んだとしても、地上の富は空しい。地を這いずり回るようにして得たその宝も、虫に食われ腐食し、やがては見るも無残な姿と変わるものだ(19)。だからこそ、隠れた所におられる神に目を向けることが大事である。「目が澄む」とは、幼子のような素朴な目で、一つのものを信頼して見つめる目のことを言う。神と富とを同時に見ようとすれば、おかしな目つきいなる。
信仰者はキリストのみを見つめ続ける。創造主と被造物とではどちらが大切かは自明のことだ。確かに、金がなくては困るし、金は必要だ。しかしイエスは、日毎の糧の前に、神の御名の崇められることを祈るように教えられた。先ず神を、である。キリストを王と仰ぐ時、必要な宝は神が備えてくださる。だから私たちは、万難を排して礼拝を守り、目を澄んだ状態に調えてもらい、視力を失わずに神を仰ぐようにする。目が澄めば、私たちの生活全体は神の祝福の中で明るくなる(詩23:6参照)。

《天に宝を》 

生ける神との関係を邪魔するものは、高価な富、大事な家族であっても、持つべきではない(10:37)。しかし私たち各自に、この地上で積むべき「天の宝」があり、それは決して失われることがないという。それは何を意味しているのか。天に宝を、とあるので、それは天においても良しとされ、通用するものなのだろう。それは主イエスも、天を仰ぎつつそうなさったように、せっせと汗を流して神のみこころを行うことだ(ヨハネ4:34)。だが、それは神のため、隣人のためと、自分が犠牲となり、損する生活を強いられることなのだろうか。
否、イエスは、神の宝ではなく、「あなたの宝」を積むようにと言われた。もちろん、神の良しとされるような完全な宝を、私たちは積めない。ただ御子イエスを通して、天に相続遺産がある(ロマ8:17)。そして、天の故郷に帰ることを夢見ながら、その準備をすること以上に、楽しく希望ある生き方はない。私たちはこのために、神に目を向け、労苦を惜しまない。

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2008/04/15

4月13日メッセージ「種を蒔こう」

小泉崇牧師/小田原教会
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。          マルコ4:8

主イエスの種まきのたとえは、福音を畑に蒔かれる種にたとえて、聞く聞き手の責任の重さを教えるために書かれている。このたとえは、マタイ、マルコ、ルカの3福音書に記されていて、その重要性を伺える。しかし、ここから、私は、福音を伝える者の伝える姿勢を教えられる。

《誰にでも》

イエスはまず「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった・・・」(マルコ4:3、4)と語りはじめた。蒔かれた種の多くが、岩地や道ばた、あるいはいばらの地に落ちた。それらの地では、種は根を下ろすこともままならず、実を結ぶまで育つことはない。もちろん農夫自身は、出来れば不毛の地に種が飛んで行くことのないように、良い地に落ちるようにと願いつつ、種を蒔く。現実に福音を蒔く私たちには、どの人が荒地か、どの人が豊かな実りをもたらす良き地かはわからない。人の評価や見積もりと神の計画は異なる。神は私たちが期待しないような者たちをあえて用いられる(ルカ14:21)。どこで芽を出し、また実を結ぶかは、私たちには判断できない。だから「ここはだめだろう」「あそこも無駄だろうな」と勝手に判断して、種まきをやめてはならない。福音を、誰にでも伝え、誰にでも語ろう。

《多くの種を》

このたとえでイエスが言われたのは、種をまく人のまき方や、場所の選定の良否に触れてはいない。無駄になった種は少なくないかもしれない。だが受け取り手が福音に耳を傾けて聴き、主の霊が働かれるとその人は神の子として生まれ変わる。それはすばらしい収穫である。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント9:6)。もちろん人の働きの多寡や努力の大小が、収穫に比例するとは言えないが、蒔かないところに収穫は期待できない。「あなたがたは・・・地の果てまでわたしの証人となります」(使徒1:8)とあるように、私たちは周囲の人々に、あるいは「全世界に出て行って」イエスを証しし、福音を伝える責任がある。

《涙をもって》

種を蒔き続けよう。もちろんそれは容易ではなく、蒔いた種も期待したようにすぐに芽を出し実をもたらすわけでもない。だが、イザヤは「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55:11)との神からの約束を紹介している。また「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126:5)の励ましがある。私たちの役目は福音の種を蒔き通けることで、芽を出させ育て上げる方は神である(Ⅰコリント3:7)。時を捧げ、祈りと愛をもって伝道に励もう。勇気を出して隣人や同僚に、自分の信じていることを証してみよう。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(後テモテ4:2)。
私たちは神のご愛と御子の犠牲を通して救いに与っている。この希望をいただいているのは私たちだけである。労を惜しまず、効率にこだわらず、主の恵みの介入を期待しつつ、福音の種を蒔こう。より多くの人々に。

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2008/04/08

4月6日メッセージ「ガリラヤに戻って」

すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」 マタイ28:10、参照7、ヨハネ21:1~14

復活の記事で、御使いは、主イエスはもう墓にはおられない、予告のとおりよみがえられた、そしてガリラヤで待っておられる、だからガリラヤに行け、と告げた。弟子たちが召しを受け訓練されたガリラヤは、彼らの原点であり、初心に立ち返るべき記念の場所であった。

《イエスの愛に立ち返るため》

そこは弟子たちがイエスのはじめの愛を知った場所であった。3年半ほどイエスと寝食を共にした彼らの故郷、カペナウムの町角や家々、ガリラヤ湖岸や沖合い、近くの丘等、至るところにイエスの足跡と思い出が詰まっていた。長血の女、中風の男、向こう岸ゲラサの狂人などを癒された情景と、その間、弟子たちに示されたイエスの愛の業の数々が思い出される。今朝、ガリラヤ湖で「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と声をかけ、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と準備を整えて招いてくださる久しぶりのイエスの姿に、変わることのない愛を覚えたことであろう(ヨハネ21:5、12)。彼は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」(ヨハネ15:9)と断言された。私たちをイエスの愛から引き離すものは何も無い(ロマ8:35)。彼の愛に迫られ、私たちははじめて弟子として立つことが出来る(Ⅱコリント5:14)。

《イエスの再召命を受けるため》

弟子たちは、主イエスの受難を通して、自分たちが弟子の資格などまったくない、いざとなると人を裏切って自己保身に走る卑怯で臆病者であることを思い知らされ、自信を失っていた。今の彼らには福音宣教や教会形成の自覚も使命感もない。しかし主イエスは裏切った弟子シモンに愛を確認し、「わたしの羊を牧しなさい」(ヨハネ21:16)と、再召命を受けた。彼は自力で弟子の働きをしたり、能力や資格があるので弟子とされたというこれまでの考えが、全く間違いであったことに気づかされた。イエスの祈りやご計画が自分を守り(ヨハネ17:11、12、ルカ22:32)、無力で無知であっても、主イエスの言葉に従うなら、豊かな漁となることを、再び教えられた(ヨハネ21:6)。

《イエスの力を確認するため》

主イエスの十字架と死という、大きな挫折(?)を味わった弟子たちは、臆病になっていた(ヨハネ20:19)。復活の意味するところもまだ漠然としか理解できていなかったのだろう。そんな彼らに、主は聖書から福音を解き明かされた(ルカ24:45)。ガリラヤにおいてでも、教え導かれたことだろう。彼は最後に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)と告げた。御子は復活によって罪と死を越える力を示された。また人を新たに創造し、万物を新生する力を有する(ロマ8:21)。モノや金、能力や地位が幅を利かすところだろうと、その場所の支配権は、一切の権威を有するキリストにある。この方が私たちの支えとなっておられるのだから、私たちはどこでも、いつでも、大胆にキリストに従うことが出来る。

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2008/04/03

3月30日メッセージ「名誉ある使命を託された者として」

谷井涙賀伝道師

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 マルコ16:15(14~18)

 弟子たちは、イエスご自身から「わたしは殺された後、三日目によみがえる」との約束を聞いていた。だがその約束を弟子たちは誰も信ぜず、なおも途方に暮れ、悲しみの中に打ちひしがれていた。そんな彼らに復活されたイエスは、一人、また一人にとご自分を示して復活の事実を証しされた。仲間の弟子が復活のイエスにお会いしたと話したが、それで信じない者もいた。そんな不信仰な弟子たちを見捨てることなく、その只中にイエスはご自分を現わし、「福音」を宣伝するという名誉ある任務を託された。今朝、私たちクリスチャンもキリストの福音の使節として召された恵みと、その使命を果すために必要な事柄を聖書から教えられたい。

 《名誉ある使命が託されている》

イエスは弟子たちの不信仰とかたくなな心を責められた(14)。イエスを愛し信頼して従ってきた弟子たちだったが、イエスの復活の預言や証を聞いても、いや見てもなお不信仰でかたくなであった。神の力を信ぜず、当時の支配者たちの迫害の手がわが身にも及ぶのではないかという恐怖に囚われていた。しかしイエスは、ご自分の死と復活によって完成された「世界で最も大切な福音」を、そんな不信の弟子たちに委ね、多くの人に届ける特権を託された(15)。福音は、人に罪の許しと神との和解、天国への約束を与える。これ以上に意義深い役目、価値ある働きはない。弟子たちは、その福音宣教という、自分たちの行状に不釣合いな、驚くべき名誉ある使命を与えられた。それはイエスを3度も裏切ったペテロ、疑い深いトマス、迫害者パウロにも及んだ。そして今、私たちにもその恵みの使命が与えられている(エペソ3:7)。この世では身分の低い者、弱い立場の者、無きに等しい者を、神はあえて選ばれる(Ⅰコリント1:26~28)。主の栄光は、福音を語るその人にってではなく、福音を完成してくださる主に帰される。

《名誉ある使命に生きる》

宣教の大命令を果すために、私たちが先ず福音に生きることが不可欠である。福音に生きるとは、この世界を創造し、統治しておられ、キリストを死からよみがえらせた全能の神を、各自の日々の営みの中で崇め、認めて生活することだ。日曜日だけ、クリスチャンではなく、いつでも、どこでも、クリスチャンとして思考し行動することだ。そのような生き方を、神は福音を広める使節として用い下さる(マタイ5:16)。またあのサマリヤの婦人(ヨハネ4:29)や目を開かれた盲人(同9:25)のように、自分の信仰の恵みの経験を隣人に証しすることも大事だ。そしてこの名誉ある使命を教会全体で果すため、協力して教会の宣教活動に参加し、さらには牧師伝道者として献身的な奉仕者も求められている。和解の言葉:福音を委ねられている者して、全力を挙げてこの使命のために、共に生きよう(Ⅱコリント5:14~15)。

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2008/03/23

3月23日イースター記念礼拝メッセージ「前から言っておられたように、よみがえられた」

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。   マタイ28:5、6(1~10)

イエスはよみがえるために十字架に架かって死んで葬られた。
主イエスは私たちの救い主となるために、天から地にくだり、神であられるのに人となり、まことの王であるのに仕える僕となり、悪人どもを一掃出来る方なのに「父よ。彼らをお許しください」と祈ってその悪行侮辱をご自分の身に引き受けられた。
そして私たちのために復活なさった。

《復活は予定の通り》

主イエスが弟子たちに「前から言っておられたように」墓からすでに出て去っておられる、と天使は告げた。確かに「わたしはよみがえる」とイエスの言われた。残酷な十字架刑を受けてもよみがえられた。鞭打ちの傷が全身の肉と骨を砕き、ローマ兵が大石で入り口を塞いでいても、よみがえられた。イエスの約束の言葉こそが現実となる。
私たちは、目に見える現実こそが動かしがたく自分たちの生活を左右し決定するものだと判断しがちだ。だがこの事件は、神のみ言葉の前にどのような事態も道を譲り、約束の言葉こそが実現することを教えてくれる。
神のお言葉は問題に勝る。しかも真理であるだけでなく愛に裏づけされた祝福の言葉である。神の約束の言葉は、力と恵みに満ちている(詩篇119:103)。

《復活は私たちのために》

よみがえられたイエスが予定通りにガリラヤに行って待っておられたとしたら、だれも駆けつけなかったことだろう。復活を信じていた弟子は一人としておらず、そのことを聞いても多くは信じなかったのだから。
この日イエスはお忙しかった。マリヤたちに現れ、エマオに向う弟子たちを引き止め、ペテロたち弟子たちの集まりに顔を出して、半信半疑の彼らに確かによみがえったという事実を教えられた。なぜなら主の復活は弟子たちの、私たち人間の救いのためだったからである。
「あわれみ豊かな神は、・・・罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4~6参照)。

《復活は私たちに勝利を》

死んで腐りかけた方が予告通り復活された。それなのに私たちは問題に直面すると、「ここにはおられません」と言われる場所にとどまって、癒されるはずがない、回復は不可能だ、と思い込んでしまう。確かに主の復活も、私たちが敗北感の中、途方にくれている間に起こっていた。だがすでに復活は起こった。キリストを信じた私たちは、罪と死に勝利し、「わたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すため」神の子として新しいいのちに生かされている(エペソ2:7)。
このいのちは、私たちが遭遇し、私たちを包囲する悲嘆と苦悩、困難と絶望の力を無力にする。死を越える病があろうか、死を越える問題があろうか。人の最後の死をさえ無力にする復活の主が、その力をもって私たちを支えてくださる。もはや恐れるものはない。

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2008/03/18

3月16日メッセージ「ペテロの挫折」

そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。       マタイ26:75(69~75)

イエスの十字架の前に立つ時、人の真実の姿が明らかにされて行く。弟子の代表格でもある12弟子のひとり、ペテロの例から学ぼう。

《彼は己の罪咎を知らないでいた》

ペテロの裏切りを予告したイエスに、彼は「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と己の命をかけても弟子の道を守ると断言した。事実、彼はイエスを守ろうと、捕り手に切りかかってもいる。ペテロはリーダーシップのある勇敢な弟子でだった。でも、彼は、自分の臆病さ、罪深さに気づいていない。
BC8世紀、預言者イザヤは来るべきメシヤを、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった・・・しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」(53:3、5)と描いている。
つまり、人は自分の罪と咎、病と痛みを自覚しなければ、十字架のイエスのことを聞いたとしても、尊ぶどころか、他人事として無視し、軽んじ忘れ去る。人はまだイエス無しに生きられない自分に気づかず、十字架の意味を悟れないからだ。

ユダはイエスを見限って敵の手に売り渡した。イエスの提供する救いは自分に不要、自分の欲するものが得られないなら意味が無い、と行動したのである。ペテロの方は、イエスの力を借りるまでもない、自分の力で神の子さえ守れるものだと思い込んでいた。
ユダもペテロも、己の必要を知らず、それを唯一満たす十字架の救いを知らない。コリント前1:18参照。

《彼はイエスの祈りの中に置かれていた》

だがペテロはイエスの祈りに包まれていた。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ23:32)。
イエスの祈りは、私たちから試練を除去するわけではない。ペテロは敵意に満ちた大祭司の屋敷で、イエスの仲間ではないかと質問を受け、窮地に立つ。主の祈り、神の子の守りは、私たちを危険に合わせないことではない。危険や試練を通して、人は挫折を味わい、弱さを知り、謙虚さを学ぶ。ペテロは女中の前でイエスを否認した。人々の前で主を呪うようなこともやった。彼は己のそむきの罪を経験し、義の欠けた者であることを痛感した。だがそれらもすべて、神の計画の中にあった。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ2:24)。豊かな実りは、地に落ちて死ななければならない。ペテロは自分に死ぬ必要があった。自身の中にキリストが生き、神の力が弱いものの中に働いて強くし、不完全な義の代わりにキリストの義をいただいて世界に宣べ伝えるために、である。
鶏の二度目の声を聞いて、ペテロはイエスのことばを思い出して激しく泣いた。やがて復活されたイエスは、ペテロを再び任命された(ヨハネ21章)。

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2008/03/11

3月9日メッセージ「私たち必要な祈り」

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 マタイ6:11~12

主イエスは、神に関する祈りから、人間の必要について何を祈ればよいのかを教えてくださった。

第一は、私たちの現実の必要、「日ごとの糧」を求めて祈るように勧められる。信仰者であっても「その日その日に必要な糧」、当座の支払や住まいを必要としており、精神的なものだけで生きて行けるわけではない。神はそれをご承知である(6:22)。昔イスラエルが荒野を40年旅した時、彼らが直面したのは教理上の問題ではなくパンや水の必要であった。そんな身近なことで私たちはしばしば不信仰に陥り、誘惑に屈する。だからこそ、それを神に求めよ、とイエスは言われた。神はそれら一切を満たすことのお出来になる(ピリピ4:19)。私たちはこの神を本気で信じ、自分のパンだけでなく隣人の食卓も「私たちの」の中に入れて祈る。またマナの故事に倣って今日の必要だけで満足し、「明日、明後日の必要」と欲張らず、神に委ねる。

第二は、負い目の許しである。「主よ。私共にどうしてもなくてならないものが二つあります。日ごとのパンと罪の許しを。アーメン」と言う祈り文がある。罪とは神に従わず、神を裏切り、自分の立派さや、人や物、地位などに従って生きることでもある。私たちは、自分の罪の許しを神に求めながら、ひとの罪を許そうとしない。私たちは、神からの慈悲を請いながら、ひとには厳しく冷酷という矛盾した罪深い面を持っている(7:3)。だからイエスは、この祈りを勧める。「決して許せない」と誰もが思わざるを得ない経験もある。だが例外を認めず、この祈りを命じたイエスは十字架の上で裏切りと殺意の人々のために祈られた(ルカ23:34)。祈りによって己の罪の深刻さを知った者だけが、神の憐れみと愛の豊かさがわかり、隣人への和解の手を差し伸べる自由を得る。

第三は、誘惑からの開放の祈りである。この語は試みとも訳せるが、それは信仰を鍛える積極的な面を持つ(ヤコブ1:7)。だが悪い者(サタン)がそれらの問題を通して、私たちを神から引き離そうと、私たちの信仰に攻撃を仕掛けてくる。私たちは罪の中にあって、悪い者の正体がわからなくなっている(参照へブル5:7、12:4)が、クリスチャンとして十字架を負って真摯に歩もうとする時(マルコ8:34)、私たちをそれから遠ざからせようとする攻撃を受けていることを知る。そしてこの祈りを祈らざるを得ない。人の力ではどうしようもない、いや神様であっても、と思って神の力の大きさを見失うだけでなく、順調にことが進んでいると、神なしでも十分やって行けると思い込む。悪魔とは、私たちに神以外のものを大きく見せる手品師である。

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2008/03/05

3月2日メッセージ「神の恵みの支配を求めて」

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 マタイ6:9、10

主イエスは、どう祈ればよいかを弟子たちに教えられた。祈りは主を信じ従がう者に与えられた特権である。今回は祈りのモデルの前半から学ぶ。

《天にます私たちの父よ》

神は、地上のすべてをご覧になり支配なさる「天」の王座にあって、恵みの支配をなさる。イエスの十字架において人の罪を完全に処罰され、神は正義と愛とが提供なさった。その神を「アバ父」、お父ちゃんと親しく呼びかけよと言われる。神は私たちを我が子として遇し、親として対応なさる(ガラテヤ4:6、マタイ7:9~11)。同時に私たちは、神を独り占めして「私の父」と呼んではならない。「私たちの父」と仲間と共に祈るのである(18:19~20)。ひとりで祈るとしても隣人を思い、仲間と「私たちの父」と呼べと命じている。兄弟が視野から抜けると、極めて利己的な祈りとなる(ルカ18:9~)。神を、私たちの父と仰ぐ時、イエスは弱い私たちのために、兄弟また大祭司として私たちのために祈ってくださるとは、何と言う祝福だろうか(ヘブル2:17、4:15)。

《御名があがめられますように》

名は性質や性格を含み、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」(詩篇20:7)の「主の御名」は、「何者に比べても信頼できる方」という神の性格を含む。「御名を知るものはあなたにより頼みます」(詩篇9:10)とは、神がどんな方であるか、その性格や能力を知っている者は、神に信頼すると言う意味だ。「あがめる」とは、イエスご自身に特別の地位を与え、生活の中で最も大事な方として迎えることで、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)と同じである。夫からダイヤの指輪をもらった妻が、ダイヤに魅せられて夫を忘れてしまうのが愚かであるように、御名を抜きにして自分の性格や能力、良い行いを大事にすることはおかしい。弟子たちは「イエス・キリストの名によって」生きた(使徒3:6)。愛とか真理を信じ、恵みや癒し成功を当てに、良い性格への改善を望んで信じているのでもない。キリストに信従しよう(ガラテヤ2:20)。

《御国が来ますように》

御国、神の国は神の支配される国、神が神として崇められる世界である。神の国に住むことは神の意思に服従することである。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と願うことは、「神よ、先ずこの私からご支配ください。」と、自分の意思を神の意思に完全に従がわせることが出来るよう、祈ることである。私たち信仰者はやがて必ず天に迎えられる。しかし今は地上で暮らすことを命じられている。祈りは、自分の意思、願いを神に押し付け強要することではない。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」とイエスが祈られたように、神の御心に服従することである(26:39)。愛と恵みと正義の神の支配が、全世界に及ぶことを祈り、恵みの支配に身を委ねよう。

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2008/02/25

2月24日メッセージ「人に聞かせる祈り」

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 マタイ6:6(5~8)

 フォーサイスは「最悪の罪は祈らないことである・・・祈らないことはいくつかの罪の中のひとつではない。キリスト者のあらゆる罪の根源に祈らないという罪がある。だから祈らないことは、もっとも大きな最悪の罪である。」と言っている。ハレスビーも「イエスは罪人の所に来られ、罪の眠りから目覚めさせ、悔い改めに導き、そのすべての罪を赦して、ご自分の子とされます。その罪人の手を取り、ご自分の強い、釘跡のある手で握って言われます。『今からわたしはあなたの生涯を共に歩み、最後には天のみ国にまで連れて行こう。悩みや困難に会えば、私に告げなさい。あなたの一生、昼も夜も、必要なものはすべて、またそれ以上のものを、何の咎めもなくあなたに与えよう。』これこそ、イエスが祈りに招かれた時、私たちに確かに与えようとされたことであると信じてよいのです。・・・私たちが祈る時、イエスは恵み深く豊かに祈りに答えようと思っておられるのです。」と祈りについて語っている。牧師として祈るという点で猛省を促される。

 ではどう祈るか。それをイエスは教える前に、私たちの祈りに危険が入り込むことを指摘された。偽善的な祈りとご利益的な祈りの二つである。当時のパリサイ人たちは毎日午前9時、午後3時、夕べの3回祈っていた。それも神に向けてというより、大通りや会堂で、人に聞かせ自分の信仰深さを見せびらかすような祈りをしていた。私たちは信仰においても神に向うより周囲を気にする傾向を消せない。それに対しイエスは警告された。人前で祈るなというのではない。「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)と集まって祈るよう勧めており、初代教会は聖霊を待つに集まって祈った(使徒1:14)。だが人に見せるための祈りであってはならない。祈りは、私の目には隠れている全知全能の神に向けて一切を委ね切る告白でもある(詩篇27:7~9)。

 第二の危険は自分の願いを神を脅迫してかなえさせようとするような祈りである。「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」。私に今、病気や迷いが必要だとか、貧しさや不安の中に留め置かれる事が必要だとは、わからない。だが神は「あなたがたがお願いする先に」何が必要であるかを承知である。神以上に私を知っておられる方はいない。その方と私は祈りをもって交わり、生ける神の豊かな祝福を知る。言葉数の多寡とか祈る熱意をもって自分の願いをかなえることだけを考えてはならない。むしろ神のみ旨を知り、み旨がなるようにと祈る。

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2008/02/20

2月17日メッセージ「主の山の上には備えがある」

谷井涙賀伝道師

あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。
            創世記22:12(1~14)

「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの人生は試練の連続でした。100歳にしてついに神から約束の息子イサクが与えられた夫婦の喜びは想像に難くありません。落ち着いて余命を息子の成長を楽しみながら過ごしていた矢先に神は「試みられる」のであります。しかし、神を恐れ敬うアブラハムは全身全霊を込めて神の命じられたことを受け止め、直ちに行動します。そして偉大な祝福に与るのです。アブラハムの信仰の姿に、私たちも主権者である神に従い祝福に与るためにはどうしたらよいのかを見てまいりましょう。

《主の語られることばに聞く》

まず、「聞く」ということです(1節、2節)。聞くことなしに従うことはできません。また何に聞くか、誰に聞くかが重要です(Iサムエル3:9)。「アブラハムよ」との呼びかけに、彼は、「はい。ここにおります」と答えます。神が語りかけられる時いつも聞く準備ができていた、いや主の語りかけを聞き逃すまいといつも耳をそばだてて注目していたアブラハムであります。告げられた内容は必ずしも耳によく聞こえることばかりではありません。ここでは最愛の、あのひとり息子を全焼のいけにえとしてささげなさいとの聞くに耐えない主のおことばをアブラハムはただ静まって聞くのであります。主は今も私たちの傍らに立って語りかけ交わられるお方です。主のおことばに聞いていますか。聞こうとしていますか。

《主の語られることばに従う》

次に、耳を疑いたくなるような命令にアブラハムは従います。「翌朝早く」(3節)とありますから、その従順たるや「直ちに」であります。何故イサクをと問うことなく、暁闇に息子イサクをささげるためのたきぎを割る父アブラハムの影がうかびます。アブラハムの心中の何が彼をそうさせたのでしょうか。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)にあるように、自分がこれまでに得てきた、土地や家畜や財産、そして最愛の宝であるイサクも神のもの、すべては神が与えて下さったものとの正しい理解があったからではないでしょうか。私たちが所有する極わずかなものに「私の~」と固執し握りしめているなら従うことは困難でしょう。神は試みられます。私たちが神にすべてを明け渡すまで。何故ならそこに神の祝福が待っているからです。そのような経験を通して神との人格的な豊かな交わり、神との交わりが深められることそれこそが私たちを本当の意味で豊かにし、祝福された生涯へと誘うからです。ご自分のひとり子をさえ惜しまずにお与えくださった主に従うのです。従いますか。

《主の語られることばを信じる》

イサクを通してあなたを祝福するとの約束(15章)をアブラハムは信じています(5節、8節)。しかし、イサクを本気で殺す気でした。たといイサクが奪われたとしても神の方法で祝福してくださると信じていたのです(ヘブル11:17~19)。主を信じて従うものに神はすでに祝福を用意してくださっているのです。後に続きましょう。

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2月10日メッセージ「人に見せるためにではなく」

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れている所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。             マタイ6:3、4(1~4)

《善行に注意を》

イエスは私たちの悪行ではなく、善行を問題とされた。悪は周囲も注意し自分も気になり、今さら注意の必要もない。私たちは欠点や問題点に関心が向き、気を取られる。だから主イエスは、自分の善行、義に対してこそ警戒せよ、と言われた。ここでの善行は、1~18節にある宗教的な行いを指す。人に対する施し、神に対する祈り、自分の課す断食である。律法学者やパリサイ人が熱心に求めた、どれも大事な信仰上の課題であった。信仰は当然に具体的な行動、生活となって表れるものだ。私たちはキリストを信じると礼拝を忠実に守り、献金をささげ、福音を証しし、祈りながらみことばの実践に励む。信仰が行動で表現されることは大事だが、その行動に信仰が見えないとすれば、善行は偽善となる。しかも行動が義である故に、本人もそれを良しとし、問題に気づかない

《人に見られないように》

「見られる」は劇場を意味し、「偽善者」は俳優、役者を意味する言葉である。人に見られる所で、人に見せるため、拍手喝采を得るためのショーとしての善行を、イエスは止めよと言われた。貧しい人々に金銭を施すことは、当時の社会では大切な愛の行為であった。だが「人にほめられたくて(直訳:人から栄光を受けるため)」、しかもより多くの人に自分を宣伝するため、わざわざラッパを鳴らして注目を集めて善行を演ずる人々がいた。彼らの行為は、神に帰すべき栄光を横取りし、自分のものとすることにほかならない。人に見せる善行では、「すでに自分の報いを受け取っている」。この場合、一時的な世の評価を得るだけで受領済み、天での、天からの報いを受けることは出来ない。イエスは「右の手のしていることを左手に知られないように」と、信仰上の行為で自分の熱心さや大きな犠牲で、自己宣伝をするなと言われる。泥棒が人に見つからないように注意して行動するように、善行は密やかに誰にも知らせずに実行せよと言われる。

《神からの報いを》

私たちは自分の行為が評価されたり報われないと腹を立てる。これだけ尽くし、これだけしたのだから、こう報われるべきだと勘定しがちだが、「隠れたところで見ておられる神」に向かうなら、この計算ずくの世界から自由となる。問題は信仰生活の向きである。自己宣伝に憂き身をやつし、名声や人の誉め言葉にいい気になるところに神はおられない。隠れた神からのみ見え、たとえ人からは見えないとしても、それで満足して生きる人生、これが信仰の人生である。神は決して大きな事にだけ目を注がれるのではない。レプタ二枚の小さな捧げ物を「生活費の全部を入れた」と評価し、報いてくださる。私たちは隠れた所をご覧になる神を喜ばせようとしようではないか。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」ガラテヤ1:10。

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2008/02/07

2月3日メッセージ「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。・・・あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。        マタイ5:46~48(38~48)

私たちは神の言葉を聞いて受け入れるために礼拝に集まって来た。率直に聞いて受け入れ、本気で実践して神の祝福の中に歩みたいものである。耳を塞いだり無視したり、あるいは割り引いて聞くような仕方をせず、皆でアーメンと受け入れ、相互に励まし合ってお言葉に応答したいものだ。今日の聖書箇所の前半は「報復するな」、後半は「敵を愛せ」と教えている。

《報復せずに》

私たちは、相手に与える自分の言動には鈍感でも、相手の扱いに不当ではないかとしばしば憤慨する。共に生活していると損害や迷惑を被り、不公平な扱いや無礼な態度、時には侮辱や軽蔑、非難中傷を被ることも少なくない。旧約は過度の復讐を禁じ、「人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯」と報復を限定した(レビ24:19、20)。また「復讐してはならない・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18、箴言25:21参照)と勧めてもいる。

《善意の応答を》

報復を控えるだけでない。不当な扱いや侮辱するような強要にも、反抗し抗議してはならない。むしろ相手の要求を受け入れ善意をもって応じるように、主イエスは勧める。では正義はどうなるのか、と案じる必要はない。悪人のさばきは神に委ね(ロマ12:19)、私たちは神の前に自分を低くし、悪魔には断固抵抗する(前ペテロ5:6~9参照)。私たちは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな」ったイエスに倣い、自分の権利を主張しない(前ペテロ2:23)。自分の権利に固執せず、むしろ他者への義務を考える。それは自己規制やがんばりからではない。イエスの十字架の愛に包まれ、御霊の助けが与えられているからだ。

《天の父のように》

主イエスはさらに進んで、憎むべき敵をも愛せ、と勧める。自分の認め難い、好ましくない人を除外し、気の合った仲間だけを隣人と考えてはならない。イエスは、神に背を向け反抗する人々を、ご自分の愛の対象、隣人とされた(マタイ9:13)。彼らこそ、主の愛を最も必要としているからである。思いに適う者を愛するに努力は要らない。それは悪人でもできる。だが私たちは、天の父の息子・娘である。主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:33)と祈られた。私たちは、彼に倣い「迫害する者のために祈り」始める(44)。祈りによって私たちは敵のかたわらに歩み寄り、執り成しの祈りによって私たちは神の前で敵の代理人となる。「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」父にふさわしく振る舞いたいものだ(45 参照Ⅰヨハネ4:8~12)。私たちは今、言い訳と報復心に代え、謝罪と感謝、愛と同情を実践する。

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1月27日メッセージ「「はい」ははい、「いいえ」はいいえ、と。」

昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。            マタイ福音書5:33、34(33-37)

《誓わずに》

人は約束どおりに行動しない、言ったことも状況次第で変更してしまう。人は嘘つきだ。そこで何とか相手の信用を得ようと、何かを保証人に立てて誓う。時には「神にかけて誓う」と言う。だが「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。」(レビ19:12)とある。そこでユダヤ人は、神の代わりに天や地、エルサレムの都や神殿に誓った。神の名を出さないから律法を破っていないとした。しかしイエスは、それは詭弁だ、天も地も、都も宮も、いや頭やその髪の毛一筋も神のもので、神に誓うと同じだと言われた。神以外のものに誓っても、その誓いを破ったとき、何らかの責任を取れないようでは、誓った意味がない。
何かを持ち出し自分の誓いに重みを持たせようとしたり、誓う対象によって責任を回避しようとしてはならない。

《真実なことばを》

主イエスは、私たちが真実なことばを語ることを求める。すべてのことばが誓いとして通用するほどに真実であることが求められている。日常の会話の不真実を放って、誓約を誰か偉い人に保障してもらったり、高価なものを抵当にして、何とか信用してもらう必要はない。日常生活の中で、私たちの言葉が家族や友人を裏切らず、仲間の人間に真実を宿すことばとして受けたられる時、誓いなど不要の「はい」ははい、「いいえ」はいいえ、となる。私たちの言葉が真実であるには、どうすればよいのか。先ず頭も髪の毛も、天と地も支配しておられる神の前に、自分たちは生かされていることを自覚し、また「一本の髪の毛すら白くも黒くもできない」無力な者だとわきまえ、神のみ手に自分を委ねた上で、語ることである。誓いは自分を主張し、自分を大きく見せようとする。だが己の弱さを知って真実の主イエスに委ねるところに、真実の言葉が生まれる。ヤコブ4:13以下参照。「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』と同時に『否』であるような方ではありません。この方には『しかり』だけがあるのです。」(後コリント1:19)。たとえ私たちが不真実でも、御子イエスの真実が私たちを覆って真実とし、「しかり」と神は肯定される。

《誓い合った者として》

「決して誓うな」と主は言われた。しかし誓約すべてを禁じたわけではない。パウロは自分の言葉の真実さを誓いの言葉を用いて述べている(後コリント1:23、ガラテヤ1:20等参照)。私たちは結婚の誓約を交わし、教会契約を誓約するが、それを禁じているととる必要は無い。この不誠実の社会にあって重要な言明や約束の際に、誠実に遂行する保障を厳粛に交わすため、時には誓いも必要であろう。そして受浸の際に、また教会加入の時に、私たちは神と教会の仲間の前で誓った言葉を真実のこととして誠実に果して行こう。神を第一として生きること、神に身を捧げること、神の言葉に全面的に従がうこと等を。

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2008/01/22

1月20日メッセージ「大地に立ち上る一筋の煙」

ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。 創世記8:20(15-22)

新年を迎え、明るく平和な年をと願いますが、世の中は人の罪ゆえにさらに混迷の度を増すことでしょう。ノアの時代を思い出します。アダム以来の人類の堕落により、神を離れた人の心は荒廃し、神の創造された世界も当初の輝きを失い、暴虐で満ちました。そこで神は、大洪水によって全生命を一掃し絶滅させようと決心されました。しかし敬虔なノア一家を神は心に留め、箱舟で救出しようとされました。造船、大洪水、そして一年以上に渡る箱舟生活。箱舟から出よとの神の命令で大地に一歩を印すノア。世界が飲み込まれる大洪水と多くの生き物の死に直面した恐怖、今後への不安などを覚えつつも、ノアは先ず、救出への感謝、新生活への期待と願いごとをもって礼拝をささげました。神はそれを喜ばれました(創世8:21)。そこで神に喜ばれる礼拝とは何かを、ここから学びましょう。

《最優先にして》

再生された広漠な大地に、一家族だけで踏み出すことになったノアの心境はおそらく期待よりも緊張と不安であり、様変わりした世界に困惑したでしょう。安堵感に浸りつつも、生きものたちの開放や、新居造り等新生活への課題も山積しています。しかし、ノアはまず祭壇を築いて神を礼拝した、とあります。聖書には事の始めや生活の節目に、まず主を礼拝した人物や集いが記されています。アブラムはカナンに入るとまず祭壇を築いています。新約の使徒はじめ初代教会の信徒たちも、礼拝を最優先にしました。それはアルファでありオメガである神が、私たちのすべてだからです(マタイ6:33)。礼拝のための祭壇はキリストが御身体をもって用意してくださいました。私たちはキリストによって呼び集められた一員として共に集い、キリストの身体の肢体となり、祭壇の一積み石として神を礼拝するのです。

《砕かれた心で》

ノアは主にささげるため、きよいものを選び取りました。「きよい」とは神の目に「善い」と認められることを意味します。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)とあるように、供え物は礼拝者の信仰を顕します。神はへりくだった心を何よりも喜んで受け入れてくださるのです。傲慢や頑なな私たちは、キリストの謙遜を学んで、平安の祝福を得る必要があります(マタイ11:29)。私たちの心は砕かれているでしょうか。神に受け入れられる礼拝のいけにえとしてふさわしく整えられているでしょうか。

《すべてを主にささげて》

広漠な大地に立ち上る一筋の煙。全部を焼き尽くす全焼のいけにえには、ノアの取る分が全く残りません。礼拝とは神に私たちをささげつくす(献身)であることがよくわかります(ローマ12:1)。なだめのかおりとして、神はそのような礼拝を喜んで受け入れ、また祝福してくださるのです。主ご自身も、十字架上で私たちのためにいのちに至るまでのすべてをお与えくださいました。罪より贖われた私たちは、主イエスに受け入れられる礼拝を、喜んでささげてまいりましょう。

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1月13日メッセージ「主の教会形成を目指して(2)」

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。          Ⅱコリント5:15(11~15)

《神の栄光を見る》 

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)とイエスは言われた。神がこの不信の時代にも生きて働いておられることを、私たちは自らが味わい、荒野のような不毛の世界で疲れ果て滅びに向かっている人々に希望の神を紹介する責務がある。私たちは死の壁を破った復活の主キリストの証人である。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)。2008年、私たちは、キリストの偉大な業の目撃者・証人となって、御名を心からほめたたえたいものである。

《主を信じる》 

イエスは「もしあなたが信じるなら」神の栄光を見ることが出来ると言われた。死んで4日も経っているラザロを、イエスが生き返えらせることが可能だと信じるならば、とマルタに言われたのであった。私たちの抱えている問題は少なくはない。だがその多くを今の社会の価値観や方法で処理しようと図る。社会の成功の方法をそのまま取り入れようとしたり、病気であれば医者や薬、人との関係は心理学手法などの効果的と思える人間的な教えで解決しようとする。私たちは決心しよう。聖書の教え、愚かに見られる十字架のことばを後ろに置くような信仰の姿勢であってはならない。私たちの信仰が、決して無駄にならないためにも、神の教えの代わりに「人間の教えを教えとして教えるだけだ」(マルコ7:7)と言われないように、聖書に照らして現実を解釈し、現実を聖書に合わせるのである。100歳と90歳のアブラハム夫婦が約束の子の誕生を信じたように、五つのパンを前にしたイエスが5千人の腹を満腹させることが可能だと信じて食卓に着かせたように。

《主に心を狂わせる》 

私たちはわがままで利己的なものである。信仰面でさえ、それが自分に益となるか否かで評価する傾向がある。教会の奉仕も自分の好みや都合に合っているか、他人に評価されるのか等を勘案して参加の有無を決め、自分の都合を優先さて平気でいる。だがパウロは、キリストが死んでくださったのは、私たちがキリストを喜ばせようと生きるようになるためではないかと迫る(冒頭聖句)。パウロの一途な神と人とへの献身は、キリストの愛に囲まれ、強く迫られてであった(14節)。神信仰のない者の目には、その行動は気が狂ったかのように見えたのであろう。主の栄光の業を見て、あるいは栄光の業を拝するために、心を尽くして主に仕えよう(申命記6:4、5)。一つのことに自分を投げ打って集中するような人でなければ、満足の行く人生にはならない。何も犠牲にせず、神に仕えることも、人を助けることも出来ない。主イエスは私たちのために生き、安住の床を持たなかった(マタイ8:20)。

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2008/01/08

1月6日メッセージ「主の教会形成を目指して(1)」

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。    ペテロ第一2:5

私たちキリスト者は使命を与えられている。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:15)は元旦礼拝の聖句である。私たちはキリストのために生きることを教えられた。その具体的な生き方を以下に確認して行こう。

《私たちは神のもの》 

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:20)。神は愚かで罪深い私たちを、ご自分の御子という途方もない代価で買い取り、神の栄光のために用いようとされている。神はご自分に従って歩む者を祝福なさる。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」(詩篇55:22)。その恵みを賛美するように求める(コロサイ3:15~17)。このために私たちは、自らをすべて神に捧げる決意をしよう(マルコ10:29、30)。

《私たちは教会に召されたもの》 

冒頭に「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」と命じられている。石材が組み合わさって建物を造り上げるように、兄姉たちは協力して教会を形成し、教会の成長に関わる責任がある(エペソ2:19~21)。教会は世にあって祭司の務めを果たし、「やみの中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるため」に召されている(Ⅰペテロ2:9)。教会で一緒に賛美し礼拝を捧げるところに、神も共おられて祝福される(マタイ18:19、20)。そしてその「すばらしいみわざを宣べ伝える」宣教の業を推進する(使徒1:8参照)。私たちは、この教会の一員であり、その働きを担っている。

《私たちはキリストの心を必要とするもの》 

「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:2~4)。主は、謙遜と愛をもって私たちにお仕えくださった。教会の一致や秩序は、尊敬と思いやりの中に形を現すものだ。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を・・・その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」(Ⅰテサロ5:12~14)。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)を、私たちの基本的姿勢を示す言葉として掲げる。

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2007/12/30

12月30日メッセージ「安らかに去る」

すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」 ルカ福音書2:28~30(22~32)

《最後は主イエスにこそある》

この一年、教会は大きな多くの行事を経験した。全国青年フェローシップ開催、2組の結婚式、40周年記念誌の発行と40周記念祝会の実施等のため、諸兄姉には多くの犠牲を払っていただいた。
問題もないではない。未解決の苦しい課題も少なからず抱えている。今日の聖書に登場するシメオンも、その長い人生で挫折や苦悩も味わい、失意や苦い経験を重ねていたことだろう。
だが彼は聖霊に導かれ、私たちのオメガ、最後となられるイエスを抱き、この赤子に自分の最後を託した(黙示21:6、7)。
この最高のアンカーである方が、私の遅れや不始末も最善に整え「事を成就し、万事を新しく」してくださる。それは一生を閉じる際にも、この年を閉じる今にも該当する。悔いも不安も残る今年の終わりを、主イエスに今お任せし、閉じていただこうではないか。
イエスを仰げば、十字架上でその直前に救いを求めた強盗も、御国に迎えられた(23:43)。

《救いは主イエスにこそある》
イエスは律法に従い、清めの儀式を、続いて過ぎ越しの子羊のように初子として己を神に捧げる儀式をなさった。イエスは「主の律法に・・・定められたところに従って犠牲を捧げる」方となられた。それは、私たちを贖い、神の子とするためにほかならない(ガラテヤ4:4、5)。
シメオンは「主よ、私の目が万民の前に備えられたあなたの御救いを見たので」と告白し(30、31)、救いの小さな兆候さえ皆目見えない腕の中の赤子に救いを見て満足している。
東の博士らも貧しい赤子にやがての神の国の王者を見て喜んで礼拝し、宝を献じて帰国の途についた。
神の救いを得て死ぬ者にとって、死は神の平和への門となる。

《平安は主イエスにこそある》
主イエスは救い主にして私の締めくくりをしてくださる。だからシメオンは「神よ。あなたのしもべを安らかに去らせてくださいます」と賛美した(29)。
無為の一日が暮れようとし、己の不甲斐なさを嘆き、無能さに打ちのめされ、不安の中にあった労務者に、自ら出向いて雇い入れ、そのわずかな労働に対し、神は、暮らしに十分な賃金を真っ先に払ってくださる方だと、イエスは喩えられた(マタイ20:14)。
神は、イエスを信じご自分により頼む者に平安を賜る(ヨハネ14:27)。希望もまた、相次ぐ苦難の時を経ても、決して滅びたり尽きることもなく備えられている(エレミヤ29:11)。
主を仰いで悔い改め、神との和解を与えられ、安心と希望をもって新年を迎えましょう(ロマ5:1、11)。

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