5月4日メッセージ「人をさばいてはならない 」
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。 マタイ7:4、5(1~6)
私たちはよく「人を裁く」。ケチをつけ、批判し、問題点をえぐり出す。この痛快な作業を通して、自分がその人の上にいるかのように思えてくる。井戸端会議で、仲間内の集まりで、私たちは誰か身近な人を誉めることは少ない。けなすことが圧倒的に多い。この個人的なさばき、批判の禁止命令は以下の理由からである。
《さばきは間違うから》
人は案外と自分自身が見えない。自分のにおいに気づかず、人のにおいに敏感だ。自分の目に梁という大きな木材が入っているのに問題としないで、相手の目にある小さなチリを取り上げて批判している、と主イエスは言われる。私たちが誰かをさばく場合、自分に何の欠点もないから出来るのだとは思っていない。ただ、自分の欠けはチリだが、彼のは梁だ、彼のほうの欠点がずっと大きい、だから忠告し、問題としているのだと、そう考えている。だがイエスは言われる。「あなたの目には梁がある」と。私たちは公平に裁いていると思っているが、案外と偏った判断を下しており、その真相や将来、本質を案外と知らない。自分の好き嫌いやわずかな知識、また直感で裁いてしまう。さばきは主に委ねよう(ロマ14:10)。
《さばきは分離を産むから》
「さばく」は「切り分ける」と言う語に由来し、それによって真と偽、善と悪を分けることを意味する。さばくことは、相手と自分との間に距離を作る。イエスは私たちを裁かず、私たちの罪をご自分のものとして背負ってくださって、一緒になる道を開いてくださった。私たちも、兄弟隣人に距離を置き、その観察者となってさばくのではなく、兄弟の罪に対して責任を感じ、その助けとなる道を考えるようでありたい。無責任な評論家のように、自分を安全な立場において、隣人の欠点を拾い上げ、教会の問題点を指摘するものであってはならない。愛は隣人と距離を作らず、観察もしない。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテヤ6:1)。
《あなたもさばかれるから》
私たちは、自分は公平に見ている、間違った発言はしていない、そう自負し勝ちである。だがそうだろうか。相手と自分を比べてその善し悪しを言っているだけでなく、今、私たちは神の前に立っていることを自覚しよう。私たちは自分のさばいたその秤、基準で神にさばかれるとしたらどうであろうか。主は、私たちの目には梁がある、大きな罪が、欠点が、現実にあると言われる。神の目によるこの判定を誰も覆せない。相手よりもはるかに罪深い自分、これを自覚しているのがクリスチャンである。悔い改め、謙虚に隣人に仕える中でこそ、はっきり見えるようになって「あなたの目のちりを取らせてください」と相手に仕える者として言えるようになる。
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