カテゴリー「メッセージ2008」の記事

2008/05/08

5月4日メッセージ「人をさばいてはならない 」

兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。 マタイ7:4、5(1~6)

私たちはよく「人を裁く」。ケチをつけ、批判し、問題点をえぐり出す。この痛快な作業を通して、自分がその人の上にいるかのように思えてくる。井戸端会議で、仲間内の集まりで、私たちは誰か身近な人を誉めることは少ない。けなすことが圧倒的に多い。この個人的なさばき、批判の禁止命令は以下の理由からである。

《さばきは間違うから》

人は案外と自分自身が見えない。自分のにおいに気づかず、人のにおいに敏感だ。自分の目に梁という大きな木材が入っているのに問題としないで、相手の目にある小さなチリを取り上げて批判している、と主イエスは言われる。私たちが誰かをさばく場合、自分に何の欠点もないから出来るのだとは思っていない。ただ、自分の欠けはチリだが、彼のは梁だ、彼のほうの欠点がずっと大きい、だから忠告し、問題としているのだと、そう考えている。だがイエスは言われる。「あなたの目には梁がある」と。私たちは公平に裁いていると思っているが、案外と偏った判断を下しており、その真相や将来、本質を案外と知らない。自分の好き嫌いやわずかな知識、また直感で裁いてしまう。さばきは主に委ねよう(ロマ14:10)。

《さばきは分離を産むから》

「さばく」は「切り分ける」と言う語に由来し、それによって真と偽、善と悪を分けることを意味する。さばくことは、相手と自分との間に距離を作る。イエスは私たちを裁かず、私たちの罪をご自分のものとして背負ってくださって、一緒になる道を開いてくださった。私たちも、兄弟隣人に距離を置き、その観察者となってさばくのではなく、兄弟の罪に対して責任を感じ、その助けとなる道を考えるようでありたい。無責任な評論家のように、自分を安全な立場において、隣人の欠点を拾い上げ、教会の問題点を指摘するものであってはならない。愛は隣人と距離を作らず、観察もしない。「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」(ガラテヤ6:1)。

《あなたもさばかれるから》

私たちは、自分は公平に見ている、間違った発言はしていない、そう自負し勝ちである。だがそうだろうか。相手と自分を比べてその善し悪しを言っているだけでなく、今、私たちは神の前に立っていることを自覚しよう。私たちは自分のさばいたその秤、基準で神にさばかれるとしたらどうであろうか。主は、私たちの目には梁がある、大きな罪が、欠点が、現実にあると言われる。神の目によるこの判定を誰も覆せない。相手よりもはるかに罪深い自分、これを自覚しているのがクリスチャンである。悔い改め、謙虚に隣人に仕える中でこそ、はっきり見えるようになって「あなたの目のちりを取らせてください」と相手に仕える者として言えるようになる。

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2008/04/30

4月27日メッセージ「思い煩わないで」

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 マタイ6:34(25~34)

 「心配」という言葉が、この短い箇所に6回出ている。原語は「思いが分裂する」の意で、「思いわずらい」(口語)、「思い悩み」(新共同)とも訳されている。私たちは天に宝を積むどころか、今日の衣食住に追われている。もっとも、人の心配事の90%は現実に起こらないそうだが、起こる可能性のないことで私たちは思い煩って無駄なエネルギーを費やしている。この心配からの解放を、主イエスはここで教えておられる。

《空の鳥を見よ》 

空を飛ぶ鳥、野に咲く花、それらを「見なさい」とあるが、何を学ぶのか。鳥の羽の美しさ、空を飛びかける能力に不思議を感じる。枯れ果てたと思った野のゆりが、季節になると再び可憐な花を咲かせている生命力にも驚かされる。それらを見て学ぶのは、食糧の確保のために何も出来ず、美しさを装う力は何もないという、彼らの無力さである。無力さだけなら、私たちも痛感する。そして劣等感や絶望、弱音になる。
しかし主イエスは、その無力さの中に、神の無限の配慮があって、彼らは空を見事に飛翔し、野に美しく揺らいでいる。劣等感は自分の本当の無力さを知らず、どこかで人に勝ってやろうという傲慢がある。人との比較があるだけで、どこにも神が見られない。真の無力を知って神に信頼するとき、私たちは神の力を経験する。マタイ6:32、Ⅱコリント12:9参照。

《神がよくしてくださらないわけがない》 

神は私たちの必要の一切をご存じである。人は鳥や野の花にはるかに勝った存在として造られた。神のかたちとして、世界を治める責務を与えられ、御子の代価で買い取られている。そして「わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしよう」と、私たちの願いに耳を傾ける約束をもされた(ヨハネ14:14)。
わざをなさるのは神であり、その神の懐に憩うことが私たちの務めである。ただ神のご支配の仕方は、私たちの考え方、私たちの願っている方法と、必ずしも一致しない。神のなさり方、神のご計画は人の思いを越える不思議なものである。主はイスラエルの民をしばしば窮地に導かれ、彼らの信仰を試され、またご自分の救いの力を証しされた。神は特別の方法で私たちを導き、恵みを施される。幼子のように信頼しよう。詩篇94:18、19。

《労苦はその日に十分だ》 

思い煩いからの解放される最後の方法は、今日を精一杯に生きることである。心配しすぎる人は、案外と今を誠実に生きていない。今を大事にしないで将来を手に入れることは出来ない。明日という時は神の支配の中にある。私たちには、今を委ねられているだけなのだから。クリスチャンは過去にぐちぐち捕らわれず、将来の不安におののかず、恵みの神の支配を信じて今を精一杯に生きる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33)。

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2008/04/22

4月20日メッセージ「あなたの宝のあるところにあなたの心も」

あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 マタイ6:21(19~24)

《マモンに捕われて》 

イエスは、日毎の必要を求めよと教えられた。私たちには、隠れた所で見ておられる父がおられ(6、18)、その方は私たちの必要をみな知っておられ、それを満たしてくださる(32、33)。ところが私たちは、その与え主を忘れて思い煩い、宝を求めて狂奔する。
この宝は、金銀財宝というより、生活を保障するように思えるものを指す。ルカ12章の喩えの、愚かな金持ちが長年分の食料を確保できた時、「さあ、これで何年も、安心して生きられる」と言ったが、その意味の宝である。これからの生活の保障、生涯に満足を与えてくれそうな職場や資格などである。
特に24節の「富」は「物神」とも訳される魔力的な偶像である。人は往々にして与え主である神を忘れ、自分の生活の土台は富や宝にあるもの、と勘違いし、神への信頼を失ってマモン神に支配される。そして人は物欲の虜に成り下がり、使用すべき財貨に逆に支配される。生きるための手段であるべきモノが、生きる目的となる。神を忘れる時、人はマモンの虜となる。

《澄んだ目で》 

マモンに惑わされ、地上に宝を積んだとしても、地上の富は空しい。地を這いずり回るようにして得たその宝も、虫に食われ腐食し、やがては見るも無残な姿と変わるものだ(19)。だからこそ、隠れた所におられる神に目を向けることが大事である。「目が澄む」とは、幼子のような素朴な目で、一つのものを信頼して見つめる目のことを言う。神と富とを同時に見ようとすれば、おかしな目つきいなる。
信仰者はキリストのみを見つめ続ける。創造主と被造物とではどちらが大切かは自明のことだ。確かに、金がなくては困るし、金は必要だ。しかしイエスは、日毎の糧の前に、神の御名の崇められることを祈るように教えられた。先ず神を、である。キリストを王と仰ぐ時、必要な宝は神が備えてくださる。だから私たちは、万難を排して礼拝を守り、目を澄んだ状態に調えてもらい、視力を失わずに神を仰ぐようにする。目が澄めば、私たちの生活全体は神の祝福の中で明るくなる(詩23:6参照)。

《天に宝を》 

生ける神との関係を邪魔するものは、高価な富、大事な家族であっても、持つべきではない(10:37)。しかし私たち各自に、この地上で積むべき「天の宝」があり、それは決して失われることがないという。それは何を意味しているのか。天に宝を、とあるので、それは天においても良しとされ、通用するものなのだろう。それは主イエスも、天を仰ぎつつそうなさったように、せっせと汗を流して神のみこころを行うことだ(ヨハネ4:34)。だが、それは神のため、隣人のためと、自分が犠牲となり、損する生活を強いられることなのだろうか。
否、イエスは、神の宝ではなく、「あなたの宝」を積むようにと言われた。もちろん、神の良しとされるような完全な宝を、私たちは積めない。ただ御子イエスを通して、天に相続遺産がある(ロマ8:17)。そして、天の故郷に帰ることを夢見ながら、その準備をすること以上に、楽しく希望ある生き方はない。私たちはこのために、神に目を向け、労苦を惜しまない。

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2008/04/15

4月13日メッセージ「種を蒔こう」

また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。          マルコ4:8

主イエスの種まきのたとえは、福音を畑に蒔かれる種にたとえて、聞く聞き手の責任の重さを教えるために書かれている。このたとえは、マタイ、マルコ、ルカの3福音書に記されていて、その重要性を伺える。しかし、ここから、私は、福音を伝える者の伝える姿勢を教えられる。

《誰にでも》

イエスはまず「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった・・・」(マルコ4:3、4)と語りはじめた。蒔かれた種の多くが、岩地や道ばた、あるいはいばらの地に落ちた。それらの地では、種は根を下ろすこともままならず、実を結ぶまで育つことはない。もちろん農夫自身は、出来れば不毛の地に種が飛んで行くことのないように、良い地に落ちるようにと願いつつ、種を蒔く。現実に福音を蒔く私たちには、どの人が荒地か、どの人が豊かな実りをもたらす良き地かはわからない。人の評価や見積もりと神の計画は異なる。神は私たちが期待しないような者たちをあえて用いられる(ルカ14:21)。どこで芽を出し、また実を結ぶかは、私たちには判断できない。だから「ここはだめだろう」「あそこも無駄だろうな」と勝手に判断して、種まきをやめてはならない。福音を、誰にでも伝え、誰にでも語ろう。

《多くの種を》

このたとえでイエスが言われたのは、種をまく人のまき方や、場所の選定の良否に触れてはいない。無駄になった種は少なくないかもしれない。だが受け取り手が福音に耳を傾けて聴き、主の霊が働かれるとその人は神の子として生まれ変わる。それはすばらしい収穫である。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント9:6)。もちろん人の働きの多寡や努力の大小が、収穫に比例するとは言えないが、蒔かないところに収穫は期待できない。「あなたがたは・・・地の果てまでわたしの証人となります」(使徒1:8)とあるように、私たちは周囲の人々に、あるいは「全世界に出て行って」イエスを証しし、福音を伝える責任がある。

《涙をもって》

種を蒔き続けよう。もちろんそれは容易ではなく、蒔いた種も期待したようにすぐに芽を出し実をもたらすわけでもない。だが、イザヤは「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」(イザヤ55:11)との神からの約束を紹介している。また「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126:5)の励ましがある。私たちの役目は福音の種を蒔き通けることで、芽を出させ育て上げる方は神である(Ⅰコリント3:7)。時を捧げ、祈りと愛をもって伝道に励もう。勇気を出して隣人や同僚に、自分の信じていることを証してみよう。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(後テモテ4:2)。
私たちは神のご愛と御子の犠牲を通して救いに与っている。この希望をいただいているのは私たちだけである。労を惜しまず、効率にこだわらず、主の恵みの介入を期待しつつ、福音の種を蒔こう。より多くの人々に。

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2008/04/08

4月6日メッセージ「ガリラヤに戻って」

すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」 マタイ28:10、参照7、ヨハネ21:1~14

復活の記事で、御使いは、主イエスはもう墓にはおられない、予告のとおりよみがえられた、そしてガリラヤで待っておられる、だからガリラヤに行け、と告げた。弟子たちが召しを受け訓練されたガリラヤは、彼らの原点であり、初心に立ち返るべき記念の場所であった。

《イエスの愛に立ち返るため》

そこは弟子たちがイエスのはじめの愛を知った場所であった。3年半ほどイエスと寝食を共にした彼らの故郷、カペナウムの町角や家々、ガリラヤ湖岸や沖合い、近くの丘等、至るところにイエスの足跡と思い出が詰まっていた。長血の女、中風の男、向こう岸ゲラサの狂人などを癒された情景と、その間、弟子たちに示されたイエスの愛の業の数々が思い出される。今朝、ガリラヤ湖で「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と声をかけ、「さあ来て、朝の食事をしなさい」と準備を整えて招いてくださる久しぶりのイエスの姿に、変わることのない愛を覚えたことであろう(ヨハネ21:5、12)。彼は「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました」(ヨハネ15:9)と断言された。私たちをイエスの愛から引き離すものは何も無い(ロマ8:35)。彼の愛に迫られ、私たちははじめて弟子として立つことが出来る(Ⅱコリント5:14)。

《イエスの再召命を受けるため》

弟子たちは、主イエスの受難を通して、自分たちが弟子の資格などまったくない、いざとなると人を裏切って自己保身に走る卑怯で臆病者であることを思い知らされ、自信を失っていた。今の彼らには福音宣教や教会形成の自覚も使命感もない。しかし主イエスは裏切った弟子シモンに愛を確認し、「わたしの羊を牧しなさい」(ヨハネ21:16)と、再召命を受けた。彼は自力で弟子の働きをしたり、能力や資格があるので弟子とされたというこれまでの考えが、全く間違いであったことに気づかされた。イエスの祈りやご計画が自分を守り(ヨハネ17:11、12、ルカ22:32)、無力で無知であっても、主イエスの言葉に従うなら、豊かな漁となることを、再び教えられた(ヨハネ21:6)。

《イエスの力を確認するため》

主イエスの十字架と死という、大きな挫折(?)を味わった弟子たちは、臆病になっていた(ヨハネ20:19)。復活の意味するところもまだ漠然としか理解できていなかったのだろう。そんな彼らに、主は聖書から福音を解き明かされた(ルカ24:45)。ガリラヤにおいてでも、教え導かれたことだろう。彼は最後に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)と告げた。御子は復活によって罪と死を越える力を示された。また人を新たに創造し、万物を新生する力を有する(ロマ8:21)。モノや金、能力や地位が幅を利かすところだろうと、その場所の支配権は、一切の権威を有するキリストにある。この方が私たちの支えとなっておられるのだから、私たちはどこでも、いつでも、大胆にキリストに従うことが出来る。

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2008/04/03

3月30日メッセージ「名誉ある使命を託された者として」

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 マルコ16:15(14~18)

 弟子たちは、イエスご自身から「わたしは殺された後、三日目によみがえる」との約束を聞いていた。だがその約束を弟子たちは誰も信ぜず、なおも途方に暮れ、悲しみの中に打ちひしがれていた。そんな彼らに復活されたイエスは、一人、また一人にとご自分を示して復活の事実を証しされた。仲間の弟子が復活のイエスにお会いしたと話したが、それで信じない者もいた。そんな不信仰な弟子たちを見捨てることなく、その只中にイエスはご自分を現わし、「福音」を宣伝するという名誉ある任務を託された。今朝、私たちクリスチャンもキリストの福音の使節として召された恵みと、その使命を果すために必要な事柄を聖書から教えられたい。

 《名誉ある使命が託されている》

イエスは弟子たちの不信仰とかたくなな心を責められた(14)。イエスを愛し信頼して従ってきた弟子たちだったが、イエスの復活の預言や証を聞いても、いや見てもなお不信仰でかたくなであった。神の力を信ぜず、当時の支配者たちの迫害の手がわが身にも及ぶのではないかという恐怖に囚われていた。しかしイエスは、ご自分の死と復活によって完成された「世界で最も大切な福音」を、そんな不信の弟子たちに委ね、多くの人に届ける特権を託された(15)。福音は、人に罪の許しと神との和解、天国への約束を与える。これ以上に意義深い役目、価値ある働きはない。弟子たちは、その福音宣教という、自分たちの行状に不釣合いな、驚くべき名誉ある使命を与えられた。それはイエスを3度も裏切ったペテロ、疑い深いトマス、迫害者パウロにも及んだ。そして今、私たちにもその恵みの使命が与えられている(エペソ3:7)。この世では身分の低い者、弱い立場の者、無きに等しい者を、神はあえて選ばれる(Ⅰコリント1:26~28)。主の栄光は、福音を語るその人にってではなく、福音を完成してくださる主に帰される。

《名誉ある使命に生きる》

宣教の大命令を果すために、私たちが先ず福音に生きることが不可欠である。福音に生きるとは、この世界を創造し、統治しておられ、キリストを死からよみがえらせた全能の神を、各自の日々の営みの中で崇め、認めて生活することだ。日曜日だけ、クリスチャンではなく、いつでも、どこでも、クリスチャンとして思考し行動することだ。そのような生き方を、神は福音を広める使節として用い下さる(マタイ5:16)。またあのサマリヤの婦人(ヨハネ4:29)や目を開かれた盲人(同9:25)のように、自分の信仰の恵みの経験を隣人に証しすることも大事だ。そしてこの名誉ある使命を教会全体で果すため、協力して教会の宣教活動に参加し、さらには牧師伝道者として献身的な奉仕者も求められている。和解の言葉:福音を委ねられている者して、全力を挙げてこの使命のために、共に生きよう(Ⅱコリント5:14~15)。

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2008/03/23

3月23日イースター記念礼拝メッセージ「前から言っておられたように、よみがえられた」

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。   マタイ28:5、6(1~10)

イエスはよみがえるために十字架に架かって死んで葬られた。
主イエスは私たちの救い主となるために、天から地にくだり、神であられるのに人となり、まことの王であるのに仕える僕となり、悪人どもを一掃出来る方なのに「父よ。彼らをお許しください」と祈ってその悪行侮辱をご自分の身に引き受けられた。
そして私たちのために復活なさった。

《復活は予定の通り》

主イエスが弟子たちに「前から言っておられたように」墓からすでに出て去っておられる、と天使は告げた。確かに「わたしはよみがえる」とイエスの言われた。残酷な十字架刑を受けてもよみがえられた。鞭打ちの傷が全身の肉と骨を砕き、ローマ兵が大石で入り口を塞いでいても、よみがえられた。イエスの約束の言葉こそが現実となる。
私たちは、目に見える現実こそが動かしがたく自分たちの生活を左右し決定するものだと判断しがちだ。だがこの事件は、神のみ言葉の前にどのような事態も道を譲り、約束の言葉こそが実現することを教えてくれる。
神のお言葉は問題に勝る。しかも真理であるだけでなく愛に裏づけされた祝福の言葉である。神の約束の言葉は、力と恵みに満ちている(詩篇119:103)。

《復活は私たちのために》

よみがえられたイエスが予定通りにガリラヤに行って待っておられたとしたら、だれも駆けつけなかったことだろう。復活を信じていた弟子は一人としておらず、そのことを聞いても多くは信じなかったのだから。
この日イエスはお忙しかった。マリヤたちに現れ、エマオに向う弟子たちを引き止め、ペテロたち弟子たちの集まりに顔を出して、半信半疑の彼らに確かによみがえったという事実を教えられた。なぜなら主の復活は弟子たちの、私たち人間の救いのためだったからである。
「あわれみ豊かな神は、・・・罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4~6参照)。

《復活は私たちに勝利を》

死んで腐りかけた方が予告通り復活された。それなのに私たちは問題に直面すると、「ここにはおられません」と言われる場所にとどまって、癒されるはずがない、回復は不可能だ、と思い込んでしまう。確かに主の復活も、私たちが敗北感の中、途方にくれている間に起こっていた。だがすでに復活は起こった。キリストを信じた私たちは、罪と死に勝利し、「わたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すため」神の子として新しいいのちに生かされている(エペソ2:7)。
このいのちは、私たちが遭遇し、私たちを包囲する悲嘆と苦悩、困難と絶望の力を無力にする。死を越える病があろうか、死を越える問題があろうか。人の最後の死をさえ無力にする復活の主が、その力をもって私たちを支えてくださる。もはや恐れるものはない。

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2008/03/18

3月16日メッセージ「ペテロの挫折」

そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。       マタイ26:75(69~75)

イエスの十字架の前に立つ時、人の真実の姿が明らかにされて行く。弟子の代表格でもある12弟子のひとり、ペテロの例から学ぼう。

《彼は己の罪咎を知らないでいた》

ペテロの裏切りを予告したイエスに、彼は「私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と己の命をかけても弟子の道を守ると断言した。事実、彼はイエスを守ろうと、捕り手に切りかかってもいる。ペテロはリーダーシップのある勇敢な弟子でだった。でも、彼は、自分の臆病さ、罪深さに気づいていない。
BC8世紀、預言者イザヤは来るべきメシヤを、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった・・・しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」(53:3、5)と描いている。
つまり、人は自分の罪と咎、病と痛みを自覚しなければ、十字架のイエスのことを聞いたとしても、尊ぶどころか、他人事として無視し、軽んじ忘れ去る。人はまだイエス無しに生きられない自分に気づかず、十字架の意味を悟れないからだ。

ユダはイエスを見限って敵の手に売り渡した。イエスの提供する救いは自分に不要、自分の欲するものが得られないなら意味が無い、と行動したのである。ペテロの方は、イエスの力を借りるまでもない、自分の力で神の子さえ守れるものだと思い込んでいた。
ユダもペテロも、己の必要を知らず、それを唯一満たす十字架の救いを知らない。コリント前1:18参照。

《彼はイエスの祈りの中に置かれていた》

だがペテロはイエスの祈りに包まれていた。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ23:32)。
イエスの祈りは、私たちから試練を除去するわけではない。ペテロは敵意に満ちた大祭司の屋敷で、イエスの仲間ではないかと質問を受け、窮地に立つ。主の祈り、神の子の守りは、私たちを危険に合わせないことではない。危険や試練を通して、人は挫折を味わい、弱さを知り、謙虚さを学ぶ。ペテロは女中の前でイエスを否認した。人々の前で主を呪うようなこともやった。彼は己のそむきの罪を経験し、義の欠けた者であることを痛感した。だがそれらもすべて、神の計画の中にあった。

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ2:24)。豊かな実りは、地に落ちて死ななければならない。ペテロは自分に死ぬ必要があった。自身の中にキリストが生き、神の力が弱いものの中に働いて強くし、不完全な義の代わりにキリストの義をいただいて世界に宣べ伝えるために、である。
鶏の二度目の声を聞いて、ペテロはイエスのことばを思い出して激しく泣いた。やがて復活されたイエスは、ペテロを再び任命された(ヨハネ21章)。

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2008/03/11

3月9日メッセージ「私たち必要な祈り」

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 マタイ6:11~12

主イエスは、神に関する祈りから、人間の必要について何を祈ればよいのかを教えてくださった。

第一は、私たちの現実の必要、「日ごとの糧」を求めて祈るように勧められる。信仰者であっても「その日その日に必要な糧」、当座の支払や住まいを必要としており、精神的なものだけで生きて行けるわけではない。神はそれをご承知である(6:22)。昔イスラエルが荒野を40年旅した時、彼らが直面したのは教理上の問題ではなくパンや水の必要であった。そんな身近なことで私たちはしばしば不信仰に陥り、誘惑に屈する。だからこそ、それを神に求めよ、とイエスは言われた。神はそれら一切を満たすことのお出来になる(ピリピ4:19)。私たちはこの神を本気で信じ、自分のパンだけでなく隣人の食卓も「私たちの」の中に入れて祈る。またマナの故事に倣って今日の必要だけで満足し、「明日、明後日の必要」と欲張らず、神に委ねる。

第二は、負い目の許しである。「主よ。私共にどうしてもなくてならないものが二つあります。日ごとのパンと罪の許しを。アーメン」と言う祈り文がある。罪とは神に従わず、神を裏切り、自分の立派さや、人や物、地位などに従って生きることでもある。私たちは、自分の罪の許しを神に求めながら、ひとの罪を許そうとしない。私たちは、神からの慈悲を請いながら、ひとには厳しく冷酷という矛盾した罪深い面を持っている(7:3)。だからイエスは、この祈りを勧める。「決して許せない」と誰もが思わざるを得ない経験もある。だが例外を認めず、この祈りを命じたイエスは十字架の上で裏切りと殺意の人々のために祈られた(ルカ23:34)。祈りによって己の罪の深刻さを知った者だけが、神の憐れみと愛の豊かさがわかり、隣人への和解の手を差し伸べる自由を得る。

第三は、誘惑からの開放の祈りである。この語は試みとも訳せるが、それは信仰を鍛える積極的な面を持つ(ヤコブ1:7)。だが悪い者(サタン)がそれらの問題を通して、私たちを神から引き離そうと、私たちの信仰に攻撃を仕掛けてくる。私たちは罪の中にあって、悪い者の正体がわからなくなっている(参照へブル5:7、12:4)が、クリスチャンとして十字架を負って真摯に歩もうとする時(マルコ8:34)、私たちをそれから遠ざからせようとする攻撃を受けていることを知る。そしてこの祈りを祈らざるを得ない。人の力ではどうしようもない、いや神様であっても、と思って神の力の大きさを見失うだけでなく、順調にことが進んでいると、神なしでも十分やって行けると思い込む。悪魔とは、私たちに神以外のものを大きく見せる手品師である。

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2008/03/05

3月2日メッセージ「神の恵みの支配を求めて」

天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 マタイ6:9、10

主イエスは、どう祈ればよいかを弟子たちに教えられた。祈りは主を信じ従がう者に与えられた特権である。今回は祈りのモデルの前半から学ぶ。

《天にます私たちの父よ》

神は、地上のすべてをご覧になり支配なさる「天」の王座にあって、恵みの支配をなさる。イエスの十字架において人の罪を完全に処罰され、神は正義と愛とが提供なさった。その神を「アバ父」、お父ちゃんと親しく呼びかけよと言われる。神は私たちを我が子として遇し、親として対応なさる(ガラテヤ4:6、マタイ7:9~11)。同時に私たちは、神を独り占めして「私の父」と呼んではならない。「私たちの父」と仲間と共に祈るのである(18:19~20)。ひとりで祈るとしても隣人を思い、仲間と「私たちの父」と呼べと命じている。兄弟が視野から抜けると、極めて利己的な祈りとなる(ルカ18:9~)。神を、私たちの父と仰ぐ時、イエスは弱い私たちのために、兄弟また大祭司として私たちのために祈ってくださるとは、何と言う祝福だろうか(ヘブル2:17、4:15)。

《御名があがめられますように》

名は性質や性格を含み、「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」(詩篇20:7)の「主の御名」は、「何者に比べても信頼できる方」という神の性格を含む。「御名を知るものはあなたにより頼みます」(詩篇9:10)とは、神がどんな方であるか、その性格や能力を知っている者は、神に信頼すると言う意味だ。「あがめる」とは、イエスご自身に特別の地位を与え、生活の中で最も大事な方として迎えることで、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(6:33)と同じである。夫からダイヤの指輪をもらった妻が、ダイヤに魅せられて夫を忘れてしまうのが愚かであるように、御名を抜きにして自分の性格や能力、良い行いを大事にすることはおかしい。弟子たちは「イエス・キリストの名によって」生きた(使徒3:6)。愛とか真理を信じ、恵みや癒し成功を当てに、良い性格への改善を望んで信じているのでもない。キリストに信従しよう(ガラテヤ2:20)。

《御国が来ますように》

御国、神の国は神の支配される国、神が神として崇められる世界である。神の国に住むことは神の意思に服従することである。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と願うことは、「神よ、先ずこの私からご支配ください。」と、自分の意思を神の意思に完全に従がわせることが出来るよう、祈ることである。私たち信仰者はやがて必ず天に迎えられる。しかし今は地上で暮らすことを命じられている。祈りは、自分の意思、願いを神に押し付け強要することではない。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」とイエスが祈られたように、神の御心に服従することである(26:39)。愛と恵みと正義の神の支配が、全世界に及ぶことを祈り、恵みの支配に身を委ねよう。

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2008/02/25

2月24日メッセージ「人に聞かせる祈り」

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。 マタイ6:6(5~8)

 フォーサイスは「最悪の罪は祈らないことである・・・祈らないことはいくつかの罪の中のひとつではない。キリスト者のあらゆる罪の根源に祈らないという罪がある。だから祈らないことは、もっとも大きな最悪の罪である。」と言っている。ハレスビーも「イエスは罪人の所に来られ、罪の眠りから目覚めさせ、悔い改めに導き、そのすべての罪を赦して、ご自分の子とされます。その罪人の手を取り、ご自分の強い、釘跡のある手で握って言われます。『今からわたしはあなたの生涯を共に歩み、最後には天のみ国にまで連れて行こう。悩みや困難に会えば、私に告げなさい。あなたの一生、昼も夜も、必要なものはすべて、またそれ以上のものを、何の咎めもなくあなたに与えよう。』これこそ、イエスが祈りに招かれた時、私たちに確かに与えようとされたことであると信じてよいのです。・・・私たちが祈る時、イエスは恵み深く豊かに祈りに答えようと思っておられるのです。」と祈りについて語っている。牧師として祈るという点で猛省を促される。

 ではどう祈るか。それをイエスは教える前に、私たちの祈りに危険が入り込むことを指摘された。偽善的な祈りとご利益的な祈りの二つである。当時のパリサイ人たちは毎日午前9時、午後3時、夕べの3回祈っていた。それも神に向けてというより、大通りや会堂で、人に聞かせ自分の信仰深さを見せびらかすような祈りをしていた。私たちは信仰においても神に向うより周囲を気にする傾向を消せない。それに対しイエスは警告された。人前で祈るなというのではない。「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます」(マタイ18:19)と集まって祈るよう勧めており、初代教会は聖霊を待つに集まって祈った(使徒1:14)。だが人に見せるための祈りであってはならない。祈りは、私の目には隠れている全知全能の神に向けて一切を委ね切る告白でもある(詩篇27:7~9)。

 第二の危険は自分の願いを神を脅迫してかなえさせようとするような祈りである。「父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」。私に今、病気や迷いが必要だとか、貧しさや不安の中に留め置かれる事が必要だとは、わからない。だが神は「あなたがたがお願いする先に」何が必要であるかを承知である。神以上に私を知っておられる方はいない。その方と私は祈りをもって交わり、生ける神の豊かな祝福を知る。言葉数の多寡とか祈る熱意をもって自分の願いをかなえることだけを考えてはならない。むしろ神のみ旨を知り、み旨がなるようにと祈る。

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2008/02/20

2月17日メッセージ「主の山の上には備えがある」

あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。
            創世記22:12(1~14)

「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの人生は試練の連続でした。100歳にしてついに神から約束の息子イサクが与えられた夫婦の喜びは想像に難くありません。落ち着いて余命を息子の成長を楽しみながら過ごしていた矢先に神は「試みられる」のであります。しかし、神を恐れ敬うアブラハムは全身全霊を込めて神の命じられたことを受け止め、直ちに行動します。そして偉大な祝福に与るのです。アブラハムの信仰の姿に、私たちも主権者である神に従い祝福に与るためにはどうしたらよいのかを見てまいりましょう。

《主の語られることばに聞く》

まず、「聞く」ということです(1節、2節)。聞くことなしに従うことはできません。また何に聞くか、誰に聞くかが重要です(Iサムエル3:9)。「アブラハムよ」との呼びかけに、彼は、「はい。ここにおります」と答えます。神が語りかけられる時いつも聞く準備ができていた、いや主の語りかけを聞き逃すまいといつも耳をそばだてて注目していたアブラハムであります。告げられた内容は必ずしも耳によく聞こえることばかりではありません。ここでは最愛の、あのひとり息子を全焼のいけにえとしてささげなさいとの聞くに耐えない主のおことばをアブラハムはただ静まって聞くのであります。主は今も私たちの傍らに立って語りかけ交わられるお方です。主のおことばに聞いていますか。聞こうとしていますか。

《主の語られることばに従う》

次に、耳を疑いたくなるような命令にアブラハムは従います。「翌朝早く」(3節)とありますから、その従順たるや「直ちに」であります。何故イサクをと問うことなく、暁闇に息子イサクをささげるためのたきぎを割る父アブラハムの影がうかびます。アブラハムの心中の何が彼をそうさせたのでしょうか。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)にあるように、自分がこれまでに得てきた、土地や家畜や財産、そして最愛の宝であるイサクも神のもの、すべては神が与えて下さったものとの正しい理解があったからではないでしょうか。私たちが所有する極わずかなものに「私の~」と固執し握りしめているなら従うことは困難でしょう。神は試みられます。私たちが神にすべてを明け渡すまで。何故ならそこに神の祝福が待っているからです。そのような経験を通して神との人格的な豊かな交わり、神との交わりが深められることそれこそが私たちを本当の意味で豊かにし、祝福された生涯へと誘うからです。ご自分のひとり子をさえ惜しまずにお与えくださった主に従うのです。従いますか。

《主の語られることばを信じる》

イサクを通してあなたを祝福するとの約束(15章)をアブラハムは信じています(5節、8節)。しかし、イサクを本気で殺す気でした。たといイサクが奪われたとしても神の方法で祝福してくださると信じていたのです(ヘブル11:17~19)。主を信じて従うものに神はすでに祝福を用意してくださっているのです。後に続きましょう。

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2月10日メッセージ「人に見せるためにではなく」

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れている所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。             マタイ6:3、4(1~4)

《善行に注意を》

イエスは私たちの悪行ではなく、善行を問題とされた。悪は周囲も注意し自分も気になり、今さら注意の必要もない。私たちは欠点や問題点に関心が向き、気を取られる。だから主イエスは、自分の善行、義に対してこそ警戒せよ、と言われた。ここでの善行は、1~18節にある宗教的な行いを指す。人に対する施し、神に対する祈り、自分の課す断食である。律法学者やパリサイ人が熱心に求めた、どれも大事な信仰上の課題であった。信仰は当然に具体的な行動、生活となって表れるものだ。私たちはキリストを信じると礼拝を忠実に守り、献金をささげ、福音を証しし、祈りながらみことばの実践に励む。信仰が行動で表現されることは大事だが、その行動に信仰が見えないとすれば、善行は偽善となる。しかも行動が義である故に、本人もそれを良しとし、問題に気づかない

《人に見られないように》

「見られる」は劇場を意味し、「偽善者」は俳優、役者を意味する言葉である。人に見られる所で、人に見せるため、拍手喝采を得るためのショーとしての善行を、イエスは止めよと言われた。貧しい人々に金銭を施すことは、当時の社会では大切な愛の行為であった。だが「人にほめられたくて(直訳:人から栄光を受けるため)」、しかもより多くの人に自分を宣伝するため、わざわざラッパを鳴らして注目を集めて善行を演ずる人々がいた。彼らの行為は、神に帰すべき栄光を横取りし、自分のものとすることにほかならない。人に見せる善行では、「すでに自分の報いを受け取っている」。この場合、一時的な世の評価を得るだけで受領済み、天での、天からの報いを受けることは出来ない。イエスは「右の手のしていることを左手に知られないように」と、信仰上の行為で自分の熱心さや大きな犠牲で、自己宣伝をするなと言われる。泥棒が人に見つからないように注意して行動するように、善行は密やかに誰にも知らせずに実行せよと言われる。

《神からの報いを》

私たちは自分の行為が評価されたり報われないと腹を立てる。これだけ尽くし、これだけしたのだから、こう報われるべきだと勘定しがちだが、「隠れたところで見ておられる神」に向かうなら、この計算ずくの世界から自由となる。問題は信仰生活の向きである。自己宣伝に憂き身をやつし、名声や人の誉め言葉にいい気になるところに神はおられない。隠れた神からのみ見え、たとえ人からは見えないとしても、それで満足して生きる人生、これが信仰の人生である。神は決して大きな事にだけ目を注がれるのではない。レプタ二枚の小さな捧げ物を「生活費の全部を入れた」と評価し、報いてくださる。私たちは隠れた所をご覧になる神を喜ばせようとしようではないか。「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。」ガラテヤ1:10。

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2008/02/07

2月3日メッセージ「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る」

自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。・・・自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。・・・あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。        マタイ5:46~48(38~48)

私たちは神の言葉を聞いて受け入れるために礼拝に集まって来た。率直に聞いて受け入れ、本気で実践して神の祝福の中に歩みたいものである。耳を塞いだり無視したり、あるいは割り引いて聞くような仕方をせず、皆でアーメンと受け入れ、相互に励まし合ってお言葉に応答したいものだ。今日の聖書箇所の前半は「報復するな」、後半は「敵を愛せ」と教えている。

《報復せずに》

私たちは、相手に与える自分の言動には鈍感でも、相手の扱いに不当ではないかとしばしば憤慨する。共に生活していると損害や迷惑を被り、不公平な扱いや無礼な態度、時には侮辱や軽蔑、非難中傷を被ることも少なくない。旧約は過度の復讐を禁じ、「人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯」と報復を限定した(レビ24:19、20)。また「復讐してはならない・・・あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18、箴言25:21参照)と勧めてもいる。

《善意の応答を》

報復を控えるだけでない。不当な扱いや侮辱するような強要にも、反抗し抗議してはならない。むしろ相手の要求を受け入れ善意をもって応じるように、主イエスは勧める。では正義はどうなるのか、と案じる必要はない。悪人のさばきは神に委ね(ロマ12:19)、私たちは神の前に自分を低くし、悪魔には断固抵抗する(前ペテロ5:6~9参照)。私たちは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せにな」ったイエスに倣い、自分の権利を主張しない(前ペテロ2:23)。自分の権利に固執せず、むしろ他者への義務を考える。それは自己規制やがんばりからではない。イエスの十字架の愛に包まれ、御霊の助けが与えられているからだ。

《天の父のように》

主イエスはさらに進んで、憎むべき敵をも愛せ、と勧める。自分の認め難い、好ましくない人を除外し、気の合った仲間だけを隣人と考えてはならない。イエスは、神に背を向け反抗する人々を、ご自分の愛の対象、隣人とされた(マタイ9:13)。彼らこそ、主の愛を最も必要としているからである。思いに適う者を愛するに努力は要らない。それは悪人でもできる。だが私たちは、天の父の息子・娘である。主は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:33)と祈られた。私たちは、彼に倣い「迫害する者のために祈り」始める(44)。祈りによって私たちは敵のかたわらに歩み寄り、執り成しの祈りによって私たちは神の前で敵の代理人となる。「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」父にふさわしく振る舞いたいものだ(45 参照Ⅰヨハネ4:8~12)。私たちは今、言い訳と報復心に代え、謝罪と感謝、愛と同情を実践する。

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1月27日メッセージ「「はい」ははい、「いいえ」はいいえ、と。」

昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。            マタイ福音書5:33、34(33-37)

《誓わずに》

人は約束どおりに行動しない、言ったことも状況次第で変更してしまう。人は嘘つきだ。そこで何とか相手の信用を得ようと、何かを保証人に立てて誓う。時には「神にかけて誓う」と言う。だが「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。」(レビ19:12)とある。そこでユダヤ人は、神の代わりに天や地、エルサレムの都や神殿に誓った。神の名を出さないから律法を破っていないとした。しかしイエスは、それは詭弁だ、天も地も、都も宮も、いや頭やその髪の毛一筋も神のもので、神に誓うと同じだと言われた。神以外のものに誓っても、その誓いを破ったとき、何らかの責任を取れないようでは、誓った意味がない。
何かを持ち出し自分の誓いに重みを持たせようとしたり、誓う対象によって責任を回避しようとしてはならない。

《真実なことばを》

主イエスは、私たちが真実なことばを語ることを求める。すべてのことばが誓いとして通用するほどに真実であることが求められている。日常の会話の不真実を放って、誓約を誰か偉い人に保障してもらったり、高価なものを抵当にして、何とか信用してもらう必要はない。日常生活の中で、私たちの言葉が家族や友人を裏切らず、仲間の人間に真実を宿すことばとして受けたられる時、誓いなど不要の「はい」ははい、「いいえ」はいいえ、となる。私たちの言葉が真実であるには、どうすればよいのか。先ず頭も髪の毛も、天と地も支配しておられる神の前に、自分たちは生かされていることを自覚し、また「一本の髪の毛すら白くも黒くもできない」無力な者だとわきまえ、神のみ手に自分を委ねた上で、語ることである。誓いは自分を主張し、自分を大きく見せようとする。だが己の弱さを知って真実の主イエスに委ねるところに、真実の言葉が生まれる。ヤコブ4:13以下参照。「あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『しかり』と同時に『否』であるような方ではありません。この方には『しかり』だけがあるのです。」(後コリント1:19)。たとえ私たちが不真実でも、御子イエスの真実が私たちを覆って真実とし、「しかり」と神は肯定される。

《誓い合った者として》

「決して誓うな」と主は言われた。しかし誓約すべてを禁じたわけではない。パウロは自分の言葉の真実さを誓いの言葉を用いて述べている(後コリント1:23、ガラテヤ1:20等参照)。私たちは結婚の誓約を交わし、教会契約を誓約するが、それを禁じているととる必要は無い。この不誠実の社会にあって重要な言明や約束の際に、誠実に遂行する保障を厳粛に交わすため、時には誓いも必要であろう。そして受浸の際に、また教会加入の時に、私たちは神と教会の仲間の前で誓った言葉を真実のこととして誠実に果して行こう。神を第一として生きること、神に身を捧げること、神の言葉に全面的に従がうこと等を。

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2008/01/22

1月20日メッセージ「大地に立ち上る一筋の煙」

ノアは、主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜と、すべてのきよい鳥のうちから幾つかを選び取って、祭壇の上で全焼のいけにえをささげた。 創世記8:20(15-22)

新年を迎え、明るく平和な年をと願いますが、世の中は人の罪ゆえにさらに混迷の度を増すことでしょう。ノアの時代を思い出します。アダム以来の人類の堕落により、神を離れた人の心は荒廃し、神の創造された世界も当初の輝きを失い、暴虐で満ちました。そこで神は、大洪水によって全生命を一掃し絶滅させようと決心されました。しかし敬虔なノア一家を神は心に留め、箱舟で救出しようとされました。造船、大洪水、そして一年以上に渡る箱舟生活。箱舟から出よとの神の命令で大地に一歩を印すノア。世界が飲み込まれる大洪水と多くの生き物の死に直面した恐怖、今後への不安などを覚えつつも、ノアは先ず、救出への感謝、新生活への期待と願いごとをもって礼拝をささげました。神はそれを喜ばれました(創世8:21)。そこで神に喜ばれる礼拝とは何かを、ここから学びましょう。

《最優先にして》

再生された広漠な大地に、一家族だけで踏み出すことになったノアの心境はおそらく期待よりも緊張と不安であり、様変わりした世界に困惑したでしょう。安堵感に浸りつつも、生きものたちの開放や、新居造り等新生活への課題も山積しています。しかし、ノアはまず祭壇を築いて神を礼拝した、とあります。聖書には事の始めや生活の節目に、まず主を礼拝した人物や集いが記されています。アブラムはカナンに入るとまず祭壇を築いています。新約の使徒はじめ初代教会の信徒たちも、礼拝を最優先にしました。それはアルファでありオメガである神が、私たちのすべてだからです(マタイ6:33)。礼拝のための祭壇はキリストが御身体をもって用意してくださいました。私たちはキリストによって呼び集められた一員として共に集い、キリストの身体の肢体となり、祭壇の一積み石として神を礼拝するのです。

《砕かれた心で》

ノアは主にささげるため、きよいものを選び取りました。「きよい」とは神の目に「善い」と認められることを意味します。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)とあるように、供え物は礼拝者の信仰を顕します。神はへりくだった心を何よりも喜んで受け入れてくださるのです。傲慢や頑なな私たちは、キリストの謙遜を学んで、平安の祝福を得る必要があります(マタイ11:29)。私たちの心は砕かれているでしょうか。神に受け入れられる礼拝のいけにえとしてふさわしく整えられているでしょうか。

《すべてを主にささげて》

広漠な大地に立ち上る一筋の煙。全部を焼き尽くす全焼のいけにえには、ノアの取る分が全く残りません。礼拝とは神に私たちをささげつくす(献身)であることがよくわかります(ローマ12:1)。なだめのかおりとして、神はそのような礼拝を喜んで受け入れ、また祝福してくださるのです。主ご自身も、十字架上で私たちのためにいのちに至るまでのすべてをお与えくださいました。罪より贖われた私たちは、主イエスに受け入れられる礼拝を、喜んでささげてまいりましょう。

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1月13日メッセージ「主の教会形成を目指して(2)」

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。          Ⅱコリント5:15(11~15)

《神の栄光を見る》 

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)とイエスは言われた。神がこの不信の時代にも生きて働いておられることを、私たちは自らが味わい、荒野のような不毛の世界で疲れ果て滅びに向かっている人々に希望の神を紹介する責務がある。私たちは死の壁を破った復活の主キリストの証人である。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)。2008年、私たちは、キリストの偉大な業の目撃者・証人となって、御名を心からほめたたえたいものである。

《主を信じる》 

イエスは「もしあなたが信じるなら」神の栄光を見ることが出来ると言われた。死んで4日も経っているラザロを、イエスが生き返えらせることが可能だと信じるならば、とマルタに言われたのであった。私たちの抱えている問題は少なくはない。だがその多くを今の社会の価値観や方法で処理しようと図る。社会の成功の方法をそのまま取り入れようとしたり、病気であれば医者や薬、人との関係は心理学手法などの効果的と思える人間的な教えで解決しようとする。私たちは決心しよう。聖書の教え、愚かに見られる十字架のことばを後ろに置くような信仰の姿勢であってはならない。私たちの信仰が、決して無駄にならないためにも、神の教えの代わりに「人間の教えを教えとして教えるだけだ」(マルコ7:7)と言われないように、聖書に照らして現実を解釈し、現実を聖書に合わせるのである。100歳と90歳のアブラハム夫婦が約束の子の誕生を信じたように、五つのパンを前にしたイエスが5千人の腹を満腹させることが可能だと信じて食卓に着かせたように。

《主に心を狂わせる》 

私たちはわがままで利己的なものである。信仰面でさえ、それが自分に益となるか否かで評価する傾向がある。教会の奉仕も自分の好みや都合に合っているか、他人に評価されるのか等を勘案して参加の有無を決め、自分の都合を優先さて平気でいる。だがパウロは、キリストが死んでくださったのは、私たちがキリストを喜ばせようと生きるようになるためではないかと迫る(冒頭聖句)。パウロの一途な神と人とへの献身は、キリストの愛に囲まれ、強く迫られてであった(14節)。神信仰のない者の目には、その行動は気が狂ったかのように見えたのであろう。主の栄光の業を見て、あるいは栄光の業を拝するために、心を尽くして主に仕えよう(申命記6:4、5)。一つのことに自分を投げ打って集中するような人でなければ、満足の行く人生にはならない。何も犠牲にせず、神に仕えることも、人を助けることも出来ない。主イエスは私たちのために生き、安住の床を持たなかった(マタイ8:20)。

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2008/01/08

1月6日メッセージ「主の教会形成を目指して(1)」

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。    ペテロ第一2:5

私たちキリスト者は使命を与えられている。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」(Ⅱコリント5:15)は元旦礼拝の聖句である。私たちはキリストのために生きることを教えられた。その具体的な生き方を以下に確認して行こう。

《私たちは神のもの》 

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Ⅰコリント6:20)。神は愚かで罪深い私たちを、ご自分の御子という途方もない代価で買い取り、神の栄光のために用いようとされている。神はご自分に従って歩む者を祝福なさる。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」(詩篇55:22)。その恵みを賛美するように求める(コロサイ3:15~17)。このために私たちは、自らをすべて神に捧げる決意をしよう(マルコ10:29、30)。

《私たちは教会に召されたもの》 

冒頭に「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」と命じられている。石材が組み合わさって建物を造り上げるように、兄姉たちは協力して教会を形成し、教会の成長に関わる責任がある(エペソ2:19~21)。教会は世にあって祭司の務めを果たし、「やみの中からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるため」に召されている(Ⅰペテロ2:9)。教会で一緒に賛美し礼拝を捧げるところに、神も共おられて祝福される(マタイ18:19、20)。そしてその「すばらしいみわざを宣べ伝える」宣教の業を推進する(使徒1:8参照)。私たちは、この教会の一員であり、その働きを担っている。

《私たちはキリストの心を必要とするもの》 

「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:2~4)。主は、謙遜と愛をもって私たちにお仕えくださった。教会の一致や秩序は、尊敬と思いやりの中に形を現すものだ。「あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を・・・その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい」(Ⅰテサロ5:12~14)。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)を、私たちの基本的姿勢を示す言葉として掲げる。

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2007/12/30

12月30日メッセージ「安らかに去る」

すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」 ルカ福音書2:28~30(22~32)

《最後は主イエスにこそある》

この一年、教会は大きな多くの行事を経験した。全国青年フェローシップ開催、2組の結婚式、40周年記念誌の発行と40周記念祝会の実施等のため、諸兄姉には多くの犠牲を払っていただいた。
問題もないではない。未解決の苦しい課題も少なからず抱えている。今日の聖書に登場するシメオンも、その長い人生で挫折や苦悩も味わい、失意や苦い経験を重ねていたことだろう。
だが彼は聖霊に導かれ、私たちのオメガ、最後となられるイエスを抱き、この赤子に自分の最後を託した(黙示21:6、7)。
この最高のアンカーである方が、私の遅れや不始末も最善に整え「事を成就し、万事を新しく」してくださる。それは一生を閉じる際にも、この年を閉じる今にも該当する。悔いも不安も残る今年の終わりを、主イエスに今お任せし、閉じていただこうではないか。
イエスを仰げば、十字架上でその直前に救いを求めた強盗も、御国に迎えられた(23:43)。

《救いは主イエスにこそある》
イエスは律法に従い、清めの儀式を、続いて過ぎ越しの子羊のように初子として己を神に捧げる儀式をなさった。イエスは「主の律法に・・・定められたところに従って犠牲を捧げる」方となられた。それは、私たちを贖い、神の子とするためにほかならない(ガラテヤ4:4、5)。
シメオンは「主よ、私の目が万民の前に備えられたあなたの御救いを見たので」と告白し(30、31)、救いの小さな兆候さえ皆目見えない腕の中の赤子に救いを見て満足している。
東の博士らも貧しい赤子にやがての神の国の王者を見て喜んで礼拝し、宝を献じて帰国の途についた。
神の救いを得て死ぬ者にとって、死は神の平和への門となる。

《平安は主イエスにこそある》
主イエスは救い主にして私の締めくくりをしてくださる。だからシメオンは「神よ。あなたのしもべを安らかに去らせてくださいます」と賛美した(29)。
無為の一日が暮れようとし、己の不甲斐なさを嘆き、無能さに打ちのめされ、不安の中にあった労務者に、自ら出向いて雇い入れ、そのわずかな労働に対し、神は、暮らしに十分な賃金を真っ先に払ってくださる方だと、イエスは喩えられた(マタイ20:14)。
神は、イエスを信じご自分により頼む者に平安を賜る(ヨハネ14:27)。希望もまた、相次ぐ苦難の時を経ても、決して滅びたり尽きることもなく備えられている(エレミヤ29:11)。
主を仰いで悔い改め、神との和解を与えられ、安心と希望をもって新年を迎えましょう(ロマ5:1、11)。

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2007/12/23

12月23日メッセージ「救い主は、貧しくなって来られた」

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 コリント第二8:9

《主イエスは貧しくなられた》
私たちは、他者よりも富むことを求め、仲間よりも秀でることを欲し、上位につきたがる。弱さを指摘されて怒り、貧しさを思い知らされて卑屈になり、下に見られたとうらみに思う。飽くことなく背比べを続け、その勝ち負けに一喜一憂する。他所を踏みつけ、押し退けても、自分を上に置こうとする。ところが私たちの主イエスは、神であられるのに人となり、万物の創造者なのに貧しい者になり、宇宙の所有者なのに居場所を持てず、正しい方であるのに罪人として処刑された。
主があえてそうなさったのは、罪深く義を欠いた貧しさにある私たちに、主の豊かな義を与えるためであった。「あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるため」とある通りだ(冒頭聖句参照)。

《主イエスの貧しさは》
第一に、神が人となるという位の大胆な放棄に示された。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(ピリピ2:6、7)。
第二に、卑賤な大工の子として育ち(マルコ6:3)、「ナザレから良いものが出るはずなし」と蔑視されていた土地に住み(ヨハネ1:46)、「なぜ取税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難を受けるような人々の仲間となり(マタイ11)、人に侮られる立場に身を置かれた。
第三に、弟子にも裏切られ(マタイ26:23、31)、神を冒涜する者として十字架に架けられ(マタイ26:65)、世に拒絶され(ヨハネ1:11)、非難と軽蔑、憎しみ、嘲りの中で殺された(マタイ27:27~44参照)。その貧しさは、預言者イザヤの預言の通りであった(53:1~3)。

《主の貧しさの意味するところは》
愛の大きさは、その犠牲によって表現される。自分の臓器を危険を冒しても提供しようとすることに、相手への愛情の深さを、私たちは知らされる。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。
御子の貧しさは、私たちの救いのために、神はどんな犠牲もいとわないという、私たちへの愛の深さを示している。ヨハネ一4:9「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」この愛を知る者は、「私たちもまた互いに愛し合うべき」ことを実践せざるを得ない(同11)。

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12月16日メッセージ「救い主は、最も小さな者のために来られた」

御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせるために来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみごりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 ルカ2:10~12(1~20)

人は通常、実際の自分より、自分を大きく、立派に、価値あるように見せようとする。だが神は人になられた。救主は、人がうらやむ方法でも立場でもない、みじめな形で、貧しい家庭の子として誕生なさった。

《辺境の地に生まれた》
世界の中心は皇帝の都ローマであった。ユダヤは地中海東端の、遠く離れた辺境の地で、ベツレヘムはその国でも忘れられた寒村であった。皇帝アウグストスは、全世界に住民登録を命じ、課税と兵役を課すことの出来る権力者である。その権威はベツレヘムにも及び、ヨセフらもその勅令で移動させられた。御子は、その命令に服さざるを得ない立場に、ご自分を置かれた。でも屈したのではない。ダビデの末裔として、預言の通りにベツレヘムから生まれ(ミカ5:2)、皇帝のように全世界から剣で奪うではなく、己のすべてを与えるという方法で、すべての民にすばらしい喜びをもたらす。
力でではなく、愛で平和を実現なさった。小ささを嘆くことはない。
皇帝は消え行き、イエスは今なお賛美されている。

《飼葉おけを床とした》
神の御子は、居場所がなかった。それは誕生の時だけではない。ご自分を「人の子には枕するところもない」(ルカ9:58)と言われ、地上での最後を人々の憎しみを受けつつ十字架で過ごされた。
この世のそんな対応を承知で、ご自分を無力なヨセフたちに委ねた。神は、飼葉おけの赤子を、メシヤであり神であるしるしとなさった(12)。
王らしく、富や権力を持つ者の家に、人々が崇めざるを得ない姿で、いかにも神の子らしく誕生なさらなかったのか、不思議に思う。だが「私たちの慕うような見ばえもない」(イザヤ53:2)謙虚さが、傲慢に勝利した。
神は私たちのために小さくなって下さった(1:48、51~53)。力の大小、貧富、才能の多寡に目を奪われて、ことの本質を見失ってはならない。

《羊飼いの礼拝を受けた》
神の御子誕生の祝いの、最初の訪問者は羊飼いであった。彼らは貧しく、宗教的規則を遵守することも出来ず、当時の宗教的な人々からは、くだらない人間と見下されていた。神は人類の救いという世界史的な大事件の最初の目撃者として、人口登録の対象にさえならなかった羊飼いを選ばれ、彼らに天使を通して、最初の福音を告げられた。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(サム前16:7)とある。神はこの世の評価に左右されない。

《そして彼らは》
ヨセフとマリヤは天使のお告げを信じ、その言葉に自分たちを委ねて、夫婦としてベツレヘムに旅して困難な中で出産し、次いで迫害を避けて、エジプト、ナザレと旅し、幼子を育てた。キリストの御救いの陰に、彼らの献身がある。また御告を受けた羊飼いたちは、早速にお言葉通りのことを目撃するために出かけ、発見し、そしてその言葉通りであったことで大喜びし、最初の福音伝道者となった(15~20)。
クリスマスにあたり、彼らの信仰に見習いたいものである。

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2007/12/14

12月9日メッセージ「救い主は、私たちを解放するために来られた」

主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。    ルカ1:68、69(67~79)

祭司ザカリヤは、無名の祭司で、祝福のしるしと考えられていた子もいないまま歳を重ね、今は老いの身であった。そんな彼に神は子を与え、聖霊を注いで神賛美に導かれた。賛意は歌う者がいい気分になることではない。神の偉大さや慈悲深さに感動と感謝をもってほめたたえ、神を大きくすることである。ザカリヤは以下のことで賛美したのだろう。

《神はその民を顧み贖い・・》

神は次のような救いの手を伸ば